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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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これも私の別ブログに載せてある小説で、全7回くらいの短編だ。
読めば分かるように、意識的に「司馬遼太郎」風の文体をしているところもある。まあ、内容的に私自身はお気に入りである。この小説が豊臣秀吉の本質を示しているとは思わないが、「意思が人間の人生を決める」というテーマは、「風の中の鳥」と同じで、私の基本哲学である。そして私は人生の早い時期に「立身出世は不幸の元」という哲学を自分の生き方の方針とした人間であり、自分の書く小説の主人公たちは、妄想の中で私自身の分身が、私自身のやるはずがない人生を生きているわけである。

(以下自己引用)

 昇る太陽

         壱

 日吉丸、後の木下藤吉郎、いや、豊臣秀吉が、自分は何者かであるとの確信を抱いたのは、そう早い時期ではない。成人するまでの彼は、自分はとうてい二十歳過ぎるまで生きることはあるまいと考えていた。人より自分が勝れているという自惚れなどは、なおさらなかったのである。それも当然で、尾張の水呑百姓の子で、幼時に寺の小僧に遣られ、そこを数年で飛び出して後は、乞食同然で各地を放浪してきた人間に、自分をひとかどの人間であるなどという自信がある筈はない。寺の小僧だった時、同輩より多少は機転が利くという気持ちを持ったこともあったが、それもかえって同輩との折り合いを悪くする役にしか立たなかった。その後は乞食や物売りをしながら、あるいは野盗の下働きさえしながら、何とか食いつないできたのだが、そのような生き方にもこの頃では嫌気がさしてきて、いっその事、死んでしまおうかと思うことさえあったのである。
 その理由の一つは、生まれつきの醜さだった。背が人並みはずれて小さく、四尺三寸ほどしかない。子供の十二、三歳並みの大きさだった。その上、顔ときたら、猿そっくりである。それも萎びた老人に近く、愛嬌に乏しい。むっつり黙り込むと異様な凄みがあるのも、人に嫌われる理由の一つだ。反面、それを憐れんでもらえることもある。しかし、女にもてたことは生まれてから一度もない。母親だけはこの醜い息子を愛しんで何かと面倒を見てくれたが、養父などは彼をひどく嫌っていたものである。
 彼の不幸は、その容貌の醜さとはうらはらに性欲の強かったことである。それも美しい女が好きでたまらない。美しい女に好かれることは一度も無かったのだから、これは地獄と言うべきだろう。
 彼が織田信長の妹、お市の方を見たのは、彼女が他国に輿入れする日だった。館から輿に乗る、その僅かな間に見たのである。その時、この世にこれほど美しい女がいるということに、彼は目もくらむような思いがした。そして、その女を抱く男がいるということに、腹の中が黒くなるような煮える思いを感じたのである。
 このわずかに数秒の出会いが彼の運命を変えた。
 この空の下のどこかにあの女がいる。いや、あの女でなくとも良い。ともかく、あのような女が世の中にはいるのだ。それを抱くまでは俺は死ねない、と日吉丸は心に決めたのだった。


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ほとんどの夏アニメが終わったので、「ダンジョンの中の人」を3周目か4周目で見ているが、第何回かの「次週予告(おまけアニメ)」で、クレイの読み上げが毎度生真面目で重苦しいので、ベルがクレイを楽しい気持ちにさせようとしてクレイを催眠術にかけようとするのだが、その手法がお定まりの、被催眠者の目の前で5円玉の振り子を動かして催眠状態にする、というもので、やがて寝息が聞こえてくるのだが、視聴者はもちろん、クレイが術にかかったと思うわけだ。だが、実はそれは術者のベル自身が寝てしまったというギャグである。
まあ、そういうサービス精神が、このアニメには細部に詰まっている。そういう精神が素晴らしい。一見、単純素朴な絵柄なので一般人には過小評価されるだろうことが惜しいアニメだ。主要キャラの性格が可愛いので、それが好きになると、何度見ても面白く楽しい。それで成功したアニメは稀有である。いや、それを狙ったアニメは多いのだろうが、私はそういうの(あざといアニメ)をかなり敬遠する性格なのである。上記のベルのアホさのように、愛されるキャラは、欠点がむしろ可愛くて魅力になるという傾向があるようだ。
このアニメはあまり話題になっていないようなので、二期が作られるかどうか分からないが、ぜひ作ってほしいアニメである。一期での謎が未解明なので、二期を作る素材は十分にあるだろう。
私の「妄想保存箱」として使っている別ブログに書いた記事だが、ここにも載せておく。
私の年齢がバレそうであるwww

(以下引用)


ふたつの面を、今 2023/11/09 (Thu)


何十年も昔、好きで、自分でも日本語訳しようとしたこともあるジュディ・コリンズの「青春の光と影(原題の直訳は「今、両面を」)」を、今朝の散歩の時に思い出して、頭の中で繰り返し鑑賞したのだが、歌詞を正確には思い出せなかった。
しかし、昔覚えた歌、あるいは、(そういう題名の古いポップスもあるが)「昔聞いた歌」というのが、突然頭の中に甦るのは面白い。何も、再生装置などなくても、脳そのものが過去を再生する再生装置なのである。同じく散歩の伴奏として、前には「軍艦マーチ」がなぜかリピートされたこともあり、頭の中で演奏を聴いていると、この曲がいかに優れたメロディと構成を持った曲かがよく分かった。次から次へと曲想が変化するのである。「響けユーフォニアム」で、ださい新曲など作らなくても、「軍艦マーチ」のほうが凄い感動を呼んだのではないか。まあ、今ではパチンコ屋のBGMとしか思われていないが、我々が子供のころは、それを全曲通して聴く経験を何度か持ったものである。というのは、運動会の定番BGMだったからだ。

それはさておき、「青春の光と影」を思い出せるかぎりで日本語訳してみる。まあ、ネットを探せば日本語訳も原詩もあるだろうが、面倒くさいので、記憶に頼る。たぶん、中学生くらいのころの記憶だ。途中の忘れた部分は適当につなげる。最後の部分は「人生の両面」のことだが、ほとんど忘れたので省略。

「青春の光と影(今、ふたつの面から)」

天使の髪の房や流れ
空に浮かんだアイスクリームのお城
そして、あちらこちらに羽毛が積もる谷間

私は雲をそんなふうに見ていた
だけど今、それは太陽の光をさえぎるだけ
どこにでも雨と雪を降らせるだけ

私は雲を両面から見た
上からも下からも
でも、今もまだ何となく
思い出すのは雲の幻
私は雲を本当には知らないのでしょう、ほんの少しも

月に宝石、妖精のお話
誰かと踊る時のめくるめく気持ち
「あなたを愛しています」とまっすぐ高らかに言うこと

私は恋をそんな風に見ていた
でも今は雲が私の前をさえぎり恋は別の面を見せた
苦痛に悲しみーーー
もしもあなたが私を愛してくれるなら、
私から去らないで

私は恋の両面を見た
ーーー
でも、今もまだ何となく
思い出すのは恋の幻想
私は恋を本当には知らないのでしょう、ほんの少しも


私は漫画家唐沢なをきの大ファンで、そのユーモアセンスの高さと絵の可愛さは唯一無二の存在だと思うし、彼の兄唐沢俊一の人間性の悪質さも仄聞しているので、この報道には驚かない。兄弟でも仲が悪いことはよくあることである。ただ、唐沢俊一も、独自のセンスはあったと思う。彼が発掘した、西城八十の少女小説復刻版は面白かった。(「血染めの白薔薇」みたいな題名だったと思う。つまり、怪奇小説と少女小説の混血で、そのバランスの悪さ、旧時代的センスが面白いわけだ。)

(以下引用)
唐沢俊一さんが心臓発作のため死去、66歳「トリビアの泉」「と学会」 漫画家の実弟が公表「20年以上絶縁状態」© よろず~ニュース

コラムニスト唐沢俊一(からさわ・しゅんいち)さんが心臓発作により24日に亡くなったことが30日、分かった。66歳だった。実弟で漫画家の唐沢なをき氏がX(旧ツイッター)で公表した。


なをき氏は「9月24日、唐沢俊一が心臓発作により自宅で亡くなりました。本日荼毘に付しまして葬儀は行いません。彼は俺に対して嘘、暴言、罵倒を繰り返してきて20年以上絶縁状態でした。晩年は金の無心も酷かったです。冷たく聞こえるかもしれませんがこの話はもうしたくないのでお悔やみの言葉はご遠慮願います」とアップした。


その後の投稿では「孤独死でしたが、SNSで異常に気づいた方々が動いてくれて早期発見できたと聞いております。ありがとうございました」と続けた。


札幌市出身の唐沢俊一さんは自称雑学王として、多くの著作を残した。フジテレビ「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」のスーパーバイザー、「と学会」での活動でも知られている。自身のXには23日まで頻繁に投稿が行われていた。


(よろず~ニュース編集部)

預言者気取りで一般人を罵倒し、自分だけ賢者気取りで意味不明の神がかったおかしな言葉を吐き散らす「バカ国民帝国日本の滅亡」の孔徳秋水氏だが、そういう名前を名乗るからには幸徳秋水が好きなのだろうと、同好の士として私は彼に一定の興味を持っている。そして、百回に一回くらい、興味深い発言もするので、そのブログの価値も無いこともない。
で、下の引用がその例だが、これは公式に確認された事実なのだろうか。

世界大恐慌がDSに仕組まれたものだということは私も別ブログで何回も書いてきたことだが、その際に具体的にどういう手段を取ったのかは知らないのである。少なくとも、財政に関しては、当時のルーズベルト大統領は大恐慌対策としてニューディール政策、つまり公共事業による政府支出増大策を取ったのだから、「財政引き締め」はしていないだろう。それとも、大恐慌前に何かの「財政引き締め」を行なったか? また、中央銀行が金融引き締めを行なったからといって、急激な株価低落が起こるか? 
そうではなくて、株式暴落と連動して金融引き締めを行なったために大恐慌が激化したのであって、金融引き締めが大恐慌の原因だったというのは時系列が違うのではないか。現実には、DSが所有株式を大量に売りに出したために当時バブル化し極度の高値状態だった株式大暴落が起こり、それが大恐慌の引き金になったという順序ではないか? もちろん、中央銀行の金融引き締めもDSの指示だろう。
つまり、「作られた大恐慌」であるというのはネットの素人経済学者の間では定説だと思う。そして、表の経済学界はDSの支配下にあるから、そうした言論は不可能である。

(以下引用)


そういえば、世界大戦の引き金となった「世界大恐慌」も、じつは…


 


中央銀行・中央政府が「逆噴射」して、


 


金融と財政の引き締めたことが問題だった。


 


 


現在の世界情勢にも通じる話である。


 







第四十一章 誕生と死



 



 春が終わり、爽やかな初夏の風が吹き始める頃、ミルドレッドは子供を産んだ。赤銅色の髪をした可愛い男の子である。



 ライオネルに約束した通り、フリードはその子にライオネルという名を付けた。



 ライオネルはすくすくと成長し、丈夫な子供に育っていった。



 ライオネルが五歳になった時、フリードとミルドレッドの良き友人であり、ライオネルにとっては優しい祖父の役割をしていたジグムントが死んだ。彼は自分の一生に満足し、穏やかに、眠るように死んでいったのである。その晩年を「家族」と一緒に過ごせたのは、彼にとってはもっとも嬉しい事だっただろう。



 フリードは、自分にとって大きな道しるべとなり、生きる手助けを与えてくれたこの恩人を、家に近い日当たりのいい丘に埋め、墓標を立てた。十字架ではなく、名前を彫った石の墓標である。ミルドレッドが簡単な字の読み書きができたので、字は彼女が書いた。



 家族三人だけの暮らしは静かで平和に過ぎていった。 



フリードはライオネルに弓を教え、獲物を取る事を教えた。



 ミルドレッドは、読み書きと剣を教えた。



 そして、ライオネルが十歳になった時、この地方を襲った流行り病に感染して、ミルドレッドは死んだ。彼女は、村に買出しに行った時にこの病気にかかり、それはフリードとライオネルにも伝染したが、この二人は辛くも生き延びたのである。



 彼女を葬った後、フリードはしばらくは悲嘆にくれ、何も手につかない状態だったが、やがて、この思い出多い山小屋で暮らす事に耐え切れず、ライオネルとともにこの山を出ることにした。



 フリードは今では三十歳になっており、当時としてはけっして若くはなかったが、そのがっしりと逞しい体にはいささかの衰えも無かった。



 そして、ライオネルの方は、しなやかな体の中に、野山の活動で鍛えられた頑健さを潜ませ、輝く瞳を持った美しい少年に成長していた。



 顔の下半分を黒々とした髭に覆われ、肩幅広く鋭い眼差しのフリードと、細身でしなやかな体つきのライオネルの二人は、弓を肩に掛け、剣を腰に下げて、山を下りていった。 



 



第四十二章 再び風の中へ



 



 その頃ローラン国は、フリードの弟ヴァジルを殺して王位を簒奪したエドモンがずっと治めていたが、最初の頃の、人気取りのための寛大な施策は一年で終わり、後はいつも通りの過酷な政治が行われていた。



 エルマニア国でもフランシア国でも事情は同じであり、庶民の苦しい生活の上に王侯貴族の贅沢で放恣な生活が行なわれていたのである。そして、庶民の大半は、その事に何の疑いも持たず、したがって、改善の夢も希望も持たなかった。精神的には、彼らの多くは動物レベルにあったと言ってよい。ルソーという偉人が出て、この不平等の状態に気づかせるのは、まだ八百年も後の話である。驚くべき事は、その八百年もの間、人々の暮らしがほとんど変わらなかった事ではないだろうか。つまり、現在の状態から利益を得ている人間が権力の座にあるかぎり、世の中の進歩や改善はない。保守主義とは常に「所有に伴う心的傾向」であり、既存秩序の保護、すなわち既存上位階級の利益擁護でしかないのである。



長い目で見れば、庶民生活全体の底上げが行なわれることで、社会全体の生活水準は上昇するのだが、大抵の場合、上の者は下の者から物を取り上げる事で自分たちの生活の向上を図ろうとする。抑圧された人間が、自分たちの地位や待遇の向上を求めるのは、当然であるばかりでなく、未来の人間のためでもある。現在の不平等や不公平、不正義に対する不満申し立てが圧殺されることは、実は世の中全体の進歩が圧殺されることでもあるのだ。もっとも、だからといって完全に平等な社会が共産主義などによって実現可能かどうかは、別問題である。完全平等社会そのものも、それが理想的状態かどうかは分からない。ただ、生まれや身分などによる機会の不平等などの、理不尽な不平等や不公正は、あってはならないのである。現在の日本や欧米諸国が身分社会でないなどと、誰に言えるだろう。



ともあれ、社会を変えるのは、庶民の意識であり、その点では、思想家の役割は大きい。ただし、庶民には手の届かない、学術的な高級な哲学などはまた、一部の物好きのためのものでしかない。むしろ、大衆音楽や小説や漫画など庶民に密着したメディアの中の思想のほうが、現実を変える力になりうるのではないだろうか。



 フリードとライオネルは、ローラン国とフランシア国の境い目にある平坦な山脈からローラン国の側に出たのであるが、山を下りてすぐにある、フリードが以前に見たあの死滅した村には、人々が住みつき、ほそぼそと生活していた。だが、その貧しい汚い身なりや、沈鬱な顔を見れば、その生活の苦しさは一目で分かる。



 この村をフリードたちはすぐに通り過ぎ、次の村に向かったが、ここもまた同じような貧しい村であった。



 こうして、フリード達は、一月ほど旅を続けた。その間に見た光景は、悲惨と貧しさだけであった。



「お父さん、どうして皆こんなに貧しいの」



 ライオネルは、フリードに尋ねた。



 フリードは、この問いに、すぐには答えられなかった。その一部の理由は分かっている。百姓の収穫の半分近くが、領主に取り上げられているからだ。だが、それだけではない。そもそも、収穫そのものが、あまりに少ないのだ。



 フリードは、考え考え、息子にそう言った。



「じゃあ、どうして収穫を増やせないの」



「畑が少ないからだ」



「だって、土地はこんなにあるよ。手を付けていない土地がたくさんあるじゃないか」



「あれは、畑にはならない土地なのだ。木の根が広がり、石ころだらけで、地味も痩せている。あれを畑にするには大変な手間が必要なのだ」



「でも、やれば畑にできるんでしょう?」



「そうだな。だが、人々は、自分の畑を耕すのに精一杯で、そんな余裕などないのだ」



「手が空いてる人はいないの?」



「たくさんいる。だが、そういう人々は貴族といって、自分たちは働かない人たちなんだ」



「そんなのおかしいよ」



「そうだな。だが、この世の中はそんなものなのだ。貴族は剣を持っていて、人々はそれに逆らう事はできない。逆らえば殺されるからな」



「ぼくたちも剣は持っているよ。でも、貴族じゃないんだろう?」



「まあな」



 フリードは、自分の過去をライオネルに話した事はなかった。話せば、本当なら国王の息子として栄耀栄華を極めた人生を送れたはずが、只の猟師の息子になっている事をおそらく不満に思い、父親を恨むだろうと考えたからである。



「ぼくが国王なら、人々がみんな幸福に暮らせるような政治を行なうのになあ」



 無邪気に言う息子の言葉に、フリードは過去の自分を振り返り、恥ずかしく思った。



「お前は、本当にそう思うか?」



 フリードは真面目な顔で息子を見下ろした。



「勿論です」



「そうか。なら、国王になるがいい」



「まさか。そんなこと、できるわけありません」



「なぜできないと分かる。それなら、お前の言葉は本気ではないことになる。お前が本当に人々の事を考えるなら、そのために努力するがいい。国王になれるかどうか、やってみなくては分かるまい」



 フリードは、実は自分も一度はローラン国とエルマニア国の国王だったのだと言いたい気持ちを抑えた。



「人間はな、自分が何者になろうと思うかで、何者になるかは決まるんだ。だが、その人間だけがいくら偉くなっても、周りの人々を幸福にしないのなら、そんな人間は偉くならないほうがいい」



 フリードは、言いながら、果たして自分は周囲の人間を幸福にしただろうかと考えた。その時、脳裏に浮かび上がってきたのは、死んだジャンヌと、行方知れずのアリーの面影だった。



(俺は、あの女たちを幸福にできなかった。国王でいた間、俺はあいつらに目もくれず、他の女たちを次から次へと漁っていただけだった。まして、国の人々の事など考えたこともなかった)



 フリードは心の中で、ジャンヌとアリーに謝った。



 そして、この時、フリードの心には、ある決心が生まれた。ローラン国の国王エドモンを倒して、再びローラン国の国王になろうという決心である。ただし、それは自分のためではなく、人々を不幸から救うためだ。前には、敵を倒す口実として言った事を、今度は本気で実行するのだ。



 かつては、偶然の歯車が噛みあって、幸運にもローラン国とエルマニア国を手に入れることができた。二度も同じような偶然に恵まれることは難しいだろう。しかし、今度は、人々全体の幸福のために戦うのである。そのためなら、自分が死んでも悔いはない。



 自分のためなら、山の中で猟師としてひっそりと生きていく事に不満はない。しかし、この世の不平等と人々の不幸にはっきりと気づいた以上は、それを無視することはできない。フリードはそういう人間であった。



 エドモンは弟ヴァジルの仇ではあるが、フリードはその敵討ちをしようという気は無かった。ヴァジルが殺された一因は、彼の悪政にあり、自業自得である。しかし、そのエドモンもまたこのように悪政を行なっているなら、それを倒すべきだ。



 フリードは、そのように考えた。



 ライオネルは、何かを考えながら、彼の傍を歩いている。フリードはその息子に優しく語りかけた。



「昔、東洋のある国で、一人の奴隷が、国王の御幸を見て、『ああ、男に生まれた以上は、あのような身分になってみたいものだ』と言ったそうだ。すると、周りの奴隷たちは、『ただの奴隷が、何を夢のような事を言っている』、と馬鹿にした。すると、その男は『小さな鳥どもには、大きな鳥の考えなど分からないのだ』、と言ったという」



 ライオネルは、興味深そうな顔で、それを聞いて、尋ねた。



「それで、その男はどうなったの?」



「さあな。そこまでは知らない。だが、お前がもしも大きな鳥なら、風に乗ってどこまでも飛んで行くがいい。人間は、志が大事なのだ。何かをやろうというその意思があれば、きっとどこまでも飛んで行けるだろう」



 ライオネルは、父親の逞しい体を見上げて、頷いた。



 フリードは、青空を見上げた。そこには、風の中を飛んで行く一羽の鳥の姿があった。



 



 



                「風の中の鳥」完 



 




スレタイを見て、「そう言えば、そうだなあ」と思ったが、コメント27を見て、また「そう言えばそうだなあ」と思ったのが我ながら面白い。二重の錯覚であると同時に、そこには合理的原因があるかと思う。
今の若い人の中には、在日朝鮮人が、日韓(朝)併合後、朝鮮半島が日本に植民地化され、当時の朝鮮人の中から日本本土へ労働者として来た人たちや、太平洋戦争当時、強制的に労働者や兵士として徴用された人たちの子孫であることを知らない者も多いのではないか。私の子供のころは、在日朝鮮人差別の問題がしばしば話題になったものである。(当時は「在日朝鮮人」としか言わなかった。韓国人というのは、第二次大戦後に生まれた名称だからだ。つまり、在日朝鮮人はあくまで日本の朝鮮統治の名残りなのである。)
在日朝鮮人は戦後しばらくはまともな職業に就くことができず、スポーツ界や芸能界のような「実力主義」世界(スポーツも芸能もある意味、体ひとつの商売である。)か、パチンコ店や焼き肉店のような「朝鮮人実業家独占業種」でしか成功できなかった。時代が進むと、在日朝鮮人の中から政治家になる者も多くなってきたが、あくまで日本人名(通名)を使ってである。
で、本題だが、アニメや漫画が「韓国人キャラ」をあまり出さないのは、日本人に多い「韓国人嫌悪」のためだが、その嫌悪は実は「自分たち日本人(の先祖)が韓国人にひどいことをしてきた」という自責の念と表裏一体であるわけだ。自責の念=自己嫌悪であり、そして自責の念は「こいつら(韓国人)は、俺に自己嫌悪の感情を起こさせる不愉快な連中だ」と、他責に変わるのである。
コメント27で言うように、ある種の漫画が在日朝鮮人を暴力団キャラや不良キャラに使うのは現実にもその種の在日朝鮮人が多いことと、「悪役として」読者や視聴者の憎悪の対象にしやすいからだろう。
話が長くなったので、中国人キャラの問題はまたいずれ書く(かもしれない)。

(以下引用)


【謎】中国人キャラは多のに、韓国人キャラがほとんどいない理由
2024.09.05 |カテゴリ:漫アゲ 議論 | コメント (390)
1: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:26.477 ID:Nytb.F1vC
no title


なんでや



3: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:55.077 ID:RpSOXyZAs
キム・カッファン

4: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:53:56.285 ID:MoB8S0kQj
必要性が無いため

6: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:54:44.765 ID:ub9mAinfA
ブラジル人はいるけどアルゼンチン人がいないって言ってるようなもんやろ

7: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:55:47.487 ID:Nr39.U7pC
ジャッジアイズのキムさん

9: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:56:53.600 ID:B5mP.jDA3
まず名前がダサくなるのキャラとして致命的なんよな

10: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:57:01.952 ID:XjdA2WZaK
日本や中国みたいな明確なキャラ付けが出来てない

14: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:25.678 ID:NBfySdQ/Z
式神の城の韓国人好き

15: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:35.437 ID:MVPdVOxAt
シージのトッケビ

16: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:58:54.527 ID:sjBLyhqJa
最近はちょくちょくおるやろ

18: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 13:59:15.191 ID:/3us3t6Il
owにも人気キャラおったやろ鉄拳にもなんかいた気がするけど思い出せんわ

22: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:02:21.399 ID:NUlVeAxGE
ジュリ

24: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:02:38.658 ID:0vdOwEbA/
PSYCHOPASSのチェグソン

27: 名無しのアニゲーさん 2024/09/02(月) 14:03:45.417 ID:Y6nEptZMR
ヤクザ漫画や不良漫画にめっちゃおるやん




 



第三十九章 イマジン



 



 作者の願望充足的な、能天気そのもののこの物語に、前章のような場面が出てきたことに違和感を感じておられる方もおありだろうが、中世というのはそういう時代だったのである。最近の学者(御用学者ではないかと私は疑っているが)の中には、それに異論を唱える者もいるようだが、生産力の低い時代には、上位の階級が、下の人間の生産した物を奪い取って生活していたというのは、確固とした事実である。そして、その事は不正極まりない出来事であり、いつまでもそれを忘れるべきではない。なぜなら、権力の不正は、常に形を変えて繰り返され、これからも繰り返され続けるからである。プロローグに書いた内容からも想像できるように、作者の心には、幼児的な願望や動物的欲望ばかりではなく、権力の不正に対する怒りが常にあるのであり、それは多分、この物語を書いた一つの原動力でもあるのだ。その事とこの物語の内容が部分的に矛盾するように見えるかもしれない。しかし、確かに主人公は権力を得るが、それはその方が話が面白いからにすぎないのである。権力自体は正義でも悪でもなく、その正しい使用と不正な使用があるだけだ。



民衆の歴史は苦役と悲惨そのものであり、人類の大半が安楽な暮らしができるようになったのは、やっと前世紀後半くらいからのことにすぎない。それは、基本的には科学の発達と、それによる生産力の向上のためであり、政治や宗教のためではない。政治や宗教がちゃんとしていたら、人類はとっくにユートピアを実現していただろう。真の偉人は、生産力の向上に尽くした無数の無名の科学者や技術者であり、ナポレオンやアレクサンダーやシーザーではないのである。もちろん、政治の変革が民衆の生活向上を促したというのも正しいのであり、それはただ一つ、「民主主義」という思想によってである。つまり、科学や技術の発達は、生産力を向上させ、民主主義は、その正しい配分を促した。したがって、現在の人間は、ルソーをこそ自分たちの恩人と思わなければならないのだ。マルクスの誤りは、パイの配分にのみ目を引かれ、パイの総量を増やすことに目が行かなかったことにある。



政治の歴史や現代政治を冷静に眺めれば分かるように、政治は常に、政治によって利益を得ている一部の人間たち(「政治によって生きる人間」だ)、つまり、国王、貴族、政治家、官僚、ブルジョワジー(現代なら、企業経営者や重役)やその一族の利益に奉仕する事を第一義としており、一般民衆はそのおこぼれに与っているにすぎない。したがって、民衆にとって正しい政治のあり方は民主主義しかない、ということも分かるだろう。一部の保守思想家のように民主主義を批判し、愚弄する人々は、自分をエリートや貴族的人間だと勘違いしているか、食卓の傍の犬のように、権力におもねって食べ残しの骨を得ようとしている汚らしい連中であるが、その言説に迷わされる庶民も多い。民衆自身が民主主義を否定することほど、滑稽なことがあるだろうか。



ただし、どのような政治的手続きが民主主義かは大きな問題であって、選挙によって為政者を選び、それに自分たちを支配させる「代議制」は、選ばれた人間が公約を守らず、勝手に自分たちの判断で政治を決定していくならば、それは少しも国民の意思を反映していないわけで、真の民主主義からは遠いものである。「代議制」はどうしても、代議士の利益のための政治にしかならないのだから、真の民主主義は、すべての議題を民衆の投票で決定する直接民主制しかない。現在の代議制は、そこに至る過渡的段階と考えるべきだろう。直接民主制が実現するためには、もちろん、民衆の政治的判断力が高度に発達しなければならないわけで、現在の日本のように国民が政治的に無知な状況ではそれは不可能な話だが、国民に真の批判精神が根付けば、いつかは可能になるだろう。



ついでに言っておけば、日本の教育は、為政者(あるいは、政治的寄生虫ども)に都合がいいように、政治に無知な国民を作るのに大いに役立っているのであり、十二年から十六年もあの無意味な知識の詰め込み教育(特に、あの無味乾燥な「政治社会」や「日本史」!)を受けたら、現実への批判精神など、消えてしまうのは確実である。おそらく、日本の若者の中で、新聞を読む習慣のある人間は、一割か二割くらいのものだろう。まして、政治欄を読む人間など、一割もおるまい。まったく見事な公教育の成果である。



また。宗教は、確かにその存在によって人々に幻想的な慰安を与え、この世の苦しみを忘れさせるものではあるが、それによって現実への不満を忘れさせ、改革への意欲を失わせるものであり、マルクスの言うように、一種の阿片であることは確かだ。それに、歴史上、戦争に反対した宗教家がほとんどいないことからも分かるように、これも第一義的には為政者に奉仕するためのものか、あるいは宗教家たちの生計手段でしかない。スタンダールのジュリアン・ソレルが、「赤」か「黒」か、つまり、軍服を選ぼうか僧服をえらぼうかと迷ったのは、それがこの世での立身出世の手段だったからであった。



 では、政治や宗教に代わる物が何かあるか、と言われれば、それは無い。と言うより、必要ないと言っておこう。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、遠い未来には宗教も国もなくなり、人間の自然な倫理(これは、おそらく、過度の欲望は幸福には結びつかないということが全人類の共通の理解となることから生まれる倫理である)が法律よりも上位に来て、人々が完全に自律的に行動して誤らない世界が来るだろう。これは確かに夢想だが、人類のすべての偉業は、たとえばライト兄弟の飛行機のように、最初はみな御伽話の類としか思われなかったのである。多くの人間が同じ夢を見るようになれば、この夢想も、やがて予見であったとされる日が来るかもしれない。



 



第四十章 物語論



 



 さて、物語もお終いに近くなってきたので、このあたりで物語そのものについての筆者の考えをまとめておこう。これは、この物語がなぜ、あちこちに政治や倫理や人間性についてのお喋りがはさまるのかということについての言い訳でもある。



小説や物語を書く面白さは、基本的には、書くに従って、新しい世界が形成されていくことである。しかし、その世界は無から生じるものではなく、作者の世界観や社会認識の反映であり、フリードたちのこの物語も、自分の力一つで、つまり腕力で世の中を生きていく男たちの物語を書いてみたいという漠然とした考えで書き出したものだが、その中に社会批判めいたものが含まれてしまうのは、それはやはり作者がどうしても現実社会に対して無関心ではいられない人間だからである。それに、後で述べるように、物語の書き方には決まりは無く、小説は、作者の思想を述べる場でもあるからだ。



しかし、思想とか世界観と言っても実は大した物ではない。作者の興味の対象となるものが自ずと作品中に出てくるのであり、この作品なら、たとえば武器や女性などである。作者の中には幼児的な願望や好みがあり、それが剣やピストルなどの武器への偏愛である。筆者は、金物屋へ行くとナイフ売り場につい立ち止まってしまう人間である。いや、包丁でも金槌でもバールでも、武器になるものならなんでも好きだ。これは男の原始的本能だろう。だからといってそういう物を無闇に振り回したりはしないが。



 本当なら、現実の人生で出会う厭な人間どもを剣で斬り、ピストルで撃ってみたいのだが、それをすると刑務所行きであるから、現実の生活ではストレスが溜まる。そこで、剣で斬ることの快感を、たとえ紙の上、空想の上だけでも味わいたいから、こうした物語を書くのであり、その事自体は幼稚だとも恥ずかしい事だとも筆者は思わない。「千一夜物語」などに見られるような、こうした願望充足こそが物語の原点だろう。興味のあり方が違うと言えばそれまでだが、その点、純文学の作品など、書く事に何の意味があるのやら、さっぱりわからない。多くの純文学の作品は、上手くてケチのつけようは無いとは思うが、読んでいてちっとも楽しくも面白くもないのだから、書いている本人も本当は楽しくはないだろう。物語は、書いている本人が楽しいというのが一番の書く目的ではないのだろうか。そして、書く楽しさは、内容が願望充足的であるということと、書くに連れて世界が作られていく事による、というのは先に書いた通りだ。そのためには、綿密な構想に従って書いてはいけないのではないか。フイールディングの「トム・ジョウンズ」は、私のもっとも好きな作品の一つだが、作者のフイールディングは、あの作品を綿密な構想のもとに書いていったとは思わない。大体の筋だけ決めて、後は出たとこ任せで書いていったのだろうと思っている。その方が楽しいに決まっているのだから。



 もっとも、ポオのように、物語は後ろから書くべきだと主張する者もいる。つまり、全体の構想を綿密に立ててからでないと、書くべきではない、ということだ。彼の見事な作品は確かにそうした考えの結果だろうが、そのために作品に一種の息苦しさがあるのも否定できないのではないだろうか。一部のファルスや「黄金虫」だけは、開放感があるが、それはポオ自身が、「前から」書いていったからだと思われる。ポオに限らず、多くの推理小説にはこの種の息苦しさがあり、筆者などには、読む気を起こさせないのである。筆者がこの物語を書いたもう一つの動機は、そうした世上の「完璧な」小説やら文学やらへの批判もある。筆者自身はスターンの「トリストラム・シャンデー」は読み通してはいないが、その物語思想には大いに共鳴する。小説は、そのように気楽で楽しいものであるべきだと思っている。



 さて、脇道が二章も続いて、フリードたちの物語の方が、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。もともと、筋など考えてもいない物語ではあるが、これではエッセイなのか物語なのか分からない。まあ、そのどっちでもあると思って貰いたい。もともと小説の書き方には決まりなどない、作者が思うように書けばいいのだ、とフイールディングも宣言しているのである。物語にすら規範を求める、お堅い人間の目からは、このような物語は、小説とも言えない下らぬ作品としか見られないだろうが、小説は、作者とのお喋りである、というのが、筆者の基本的な考えである。そして、それならば、小説においては、細部に面白さがあれば十分であって、ストーリーというものは、実はそう思われているほど大きな意味は持たないのではないか、と考えてもいるのである。いや、そうではない、キャラクターの造形、背景描写、心理描写、堅牢なストーリー展開、といったものがなければ小説ではない、という人間がいても勿論いいが、いや、それがおそらく小説読みの大半だろうが、そうではない人間もいるはずだ。作者の私自身が読みたいのも、夏目漱石の「猫」や、フイールディングの「トム・ジョウンズ」のような小説である。あの、気楽な、自由な、作者とお喋りする雰囲気こそ、小説を読む楽しさであると筆者には思われる。だから、そういう作品を筆者も書きたいのである。それに、ストーリーは、読めばそれで終わりだが、作者の思想は、もしも読者がそれに共鳴するならば、読者の心に長く続く影響を残す。それも小説の大きな意義ではないだろうか。



 物語も終盤近くなって、このような駄弁もどうかとは思うが、これが多分最後の駄弁なので、お許し願いたい。



 

 

風の中の鳥 (37)(38) 2016/08/07 (Sun)




第三十七章 冬の夜



 冬が来た。雪の降り積もった山はひっそりと静かだったが、フリードとミルドレッドの山の家には大きな石造りの暖炉があり、秋の間に蓄えた豊富な薪と食糧で、長い冬も安楽に過ごせそうであった。

 さすがのジグムントも、人恋しさのためにフリードの家に来て過ごす事が多くなり、今では彼の家に泊まる事の方が多かった。

 周りが雪に閉ざされた冬の間は、する事もほとんど無い。フリードは、木を削って弓矢を作ったり、家の内部の様々な調度を作ったりする事で日々を過ごしていた。そして、ミルドレッドは、やがて生まれる子の肌着を縫い、着物を作る。

 単調だが、退屈ではない。人間の暮らしとは、もともとそういうものだ。

 昼の間はまだ、屋根の雪下ろしなどのために外に出ることもあるが、夜には炉辺で話をしたり、居眠りなどをしたりするだけだ。

ジグムントは、暖炉の前で手足をあぶりながら、フリードたちと別れてからの話をした。

 フリードから、エルマニアの郡の一つの領主となるように言われて、それを断ったジグムントは、一人でふらりと旅に出た。いや、一人ではなく、従者を一人連れていた。例の、人参小僧ティモシーである。

 最初は、物珍しさから、未知のエルマニア国のあちこちを旅して回ったが、やがて故郷が懐かしくなり、彼はフランシアに戻った。

 そこで聞いた話は、思いがけないものだった。

 あの、皇太子妃のマリアが王妃になったという話である。国王のマルタンが死んで皇太子が即位したわけではない。息子の嫁に欲情した国王マルタンが、マリアを奪って自分の物にしたのである。例によって人にノーと言えない性格のマリアは、それに素直に従ったのだろうが、皇太子は、いい面の皮である。前の王妃は、離婚こそされないものの、遠くの離宮にほとんど幽閉状態にある、ということで、まったく美貌というものは罪作りなものである。

 国王の義父となったアキムは、大変な権力者となり、今では財務大臣となってフランシアの国家財政のすべてを管理していた。

 ジグムントと久し振りに再会したアキムは、大喜びをして、彼にフランシア宮廷の廷臣となる事を勧めたが、彼はそれを断った。陰謀だらけで、油断も隙もならない宮廷で生きることなど真っ平だったからだ。

 彼は里心のついたティモシーをパーリャに残し、一人で再び放浪の旅に出た。その間、様々な冒険もあったが、やがて体の衰えを感じ、人生最後の日々をひっそりと暮らそうと、この住み慣れた山小屋に戻ってきた、というのがジグムントの話であった。

「そうそう、そう言えば、アキムには妾がいたぞ。今では、正妻のサラよりよほど威張っておった」

 ジグムントの言葉に、フリードは答えた。

「まあ、大臣ともなれば珍しい事ではないでしょうな」

「それが、あのシモーヌじゃ」

「シモーヌ?」

「ほれ、わしとお前が最初にアキムの家に行った時、美人の女中がいたじゃろう。あの女中のシモーヌじゃよ」

「ああ、思い出しました」

 フリードの心に、あの、つんと澄ました、きれいな顔をしたシモーヌの顔が思い浮かんだ。実は、彼女を見た時、フリードの心には、彼女の体を得たいという欲望が生じていたのだが、家の主人への遠慮と、田舎者の気後れのために何も出来なかったのであった。今の自分なら、さっさと手に入れていたものを。

 そうしたフリードの心を見透かしたように、ミルドレッドが口を挟んだ。

「あんた、そのシモーヌって子に惚れていたんでしょう」

 妻の勘の良さに、フリードはびくっとした。こいつ、魔女ではないだろうな。

「ま、まさか」

「ふん、どうだか。男なんて、みんな同じよ。少しきれいな子を見るとすぐに鼻の下を伸ばすんだから」

「はっはっはっ。まあ、許してやれ。あの頃はこいつも純情で、あの美人の女中に手は出さなかったのじゃから。もっとも、あの女は澄ました顔に似ず、好き者で、わしとは寝ておるのじゃよ。だから、アキムの前で、妾になったあの女と顔を合わせるのは、何とも面映いものじゃったわい」 

 フリードはあきれて、この、手の早い老人の顔を見つめた。

長い冬の夜はしんしんと更けていく。

 暖炉の灰の中で焼き栗のはぜる音がする。

 窓の外では時折ごうっと強い風の音がするが、室内は火に照らされ、平和で暖かだ。

こうして、時間はゆっくりと過ぎていくのであった。



第三十八章 春と死体



 やがて春になった。

 雪解け水が、割れた雪の間を流れ、黒い湿った土があちこちに姿を現し、草や木の緑の芽生えが伸び始めた。

 太陽の光も輝きを増し、風に春の匂いが漂いだしている。つまり、草木と土の匂いである。太陽の匂いさえもするようだ。

 ミルドレッドのお腹はずいぶんと大きくなっていたが、出産にはまだ間がありそうである。

 フリードは、ミルドレッドが欲しがっている台所の品物を手に入れるために、山を下りて近くの村へ行ってみることにした。

 ある村の近くまで来た時、フリードは異様な気配を感じた。この季節の村は、春の農耕の準備で活気に溢れているはずだのに、村の近辺がひっそりと静まり返っているのである。

 村に入ったフリードは、そこである物を目撃して、思わず顔をそむけた。

 道端の、露出した黒土の間に転がっているのは、腐乱した人間の死体であった。

 よく見ると、あちこちに人間の白骨が転がっている。しかし、そのほとんどは、手足や頭部がばらばらになった物である。肉がついて腐乱したものは、最初に見た一体だけだ。

 フリードは、事情を理解した。つまり、この村は、飢饉のために同じ村の人間同士が食い合ったのである。

 フリードは幾つかの家に入って、どこにも食糧がひとかけらも無い事を確認し、自分の想像が誤っていない事を確信した。家の中にも、白骨死体があちこちにあった。その多くは子供や幼児の白骨である。まず子供や幼児が食われ、最後に大人たちが食い合ったのだろう。

 フリードは、小さな子供の白骨を見下ろして眉根を曇らせた。

 この子供たちは、何のためにこの世に生まれてきたのだろうか。この世に生まれることに何の意味があったというのだろうか。彼らがこんな目に遭わねばならないどんな理由があるというのか。神は、こういうことをお許しになるのだろうか。

 フリードはもともとあまり信心深い人間でもなかったが、この当時の人間の常として、神の存在自体は疑った事はなかった。

 しかし、目の前の光景は、もしも神がこの世界を作ったのなら、その神は人間の理解する善や悪とは無縁の、非人格的な存在でしかないだろうと思わせるものだった。

 このような事をフリードは概念的に思考したわけではなく、ただ漠然と考えただけであったが、神への疑いの気持ちが生じたことは確かであった。また、神の宣伝者である、僧侶たちへの疑いも彼の中に生じた。確かに、僧侶たちの中には善人も多く、人々への施しをすることもある。しかし、彼らに十分の一税を納めるために人々が苦しんでいる事を考えれば、雀の涙ほどの施しなど、何の意味も持たないだろう。彼らは貴族と同じ特権階級であり、この世の寄生者である。

 彼自身、国王として人々を苦しめていたのではないかと考えると、フリードは目の前の子供の白骨が、自分のせいであるような気持ちになった。

 この世は、神が作った世界かもしれない。それは確かめようのないことだ。しかし、この世はこのような悪と悲惨に満ちている。それを変えられるのは、神ではなく、人間である自分たちだけだ。神はこの世のことに関与しないのだ。

 フリードは、重苦しい気持ちを抱いて山の家に戻って行った。






いや、女性で81キロはかなりのデブだろうwww
気の毒で泣けた人もいるようだ。

(以下引用)あえて、記事本文は載せない。

「81キロはすごい」NHK女性キャスターのガチ始球式が反響「フォームが豪快」「なんか泣けた」
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