私が高校球児として最高の投手と考えるのがこの江川卓なのだが、今の若い人には彼の凄さが分からないだろう。
もちろん、甲子園成績だけで言えば戦時中の海草中の嶋投手などが凄い成績を残しているが、当時はまだまだ高校野球自体のレベルが低い時代だったし、戦時中で練習もままならない時代の個人成績である。江川の時代は高校野球の最盛期と言っていい。今のようにインチキなスピードガン計測での球速などより、私は自分の目で(テレビで)見た江川こそが最高の速球投手だったと思っている。
(以下引用)
【センバツの記憶1973年・後編】怪物の運命が狂わされた雨と二度寝、夏の“チーム崩壊”江川卓の証言
1973年、準決勝・広島商戦でカメラの放列に囲まれる作新学院・江川卓
大正、昭和、平成、令和。時代を超えて春を彩ってきたセンバツ高校野球が18日に開幕する。バットにかすっただけで――。高校球児の聖地に衝撃が走ったのは1973年(昭48)3月27日、第45回選抜高校野球大会初日、開会式直後の第1試合だった。作新学院(栃木)のエース、江川卓は出場30校中最高のチーム打率・336を誇る優勝候補の北陽(大阪、現関大北陽)を相手に「怪物」のベールを脱いだ。打者の手元で浮き上がる快速球。振っても振ってもバットは空を切る。初回3者三振。初めてバットに当てたのは2回1死から。5番打者だった。この試合23球目。振り遅れのファウルでスタンドがドッと沸いた。驚がくの甲子園デビュー。江川氏自身の証言を織り込みながら振り返る。(前編から続く) 【写真】1973年4月3日、センバツ準々決勝・今治西戦で20奪三振の快投を見せガッツポーズで喜ぶ作新学院の江川 ~~準々決勝は7回2死まで完全 1安打20三振~ 江川氏「ノーヒットノーランとか完全試合だったらそのまま投げてると思うけど、1本打たれてたんでね。甲子園に行ったら大橋にも投げてもらいたいというのが夢だったから」 2回戦の相手は小倉南(福岡)だった。3回にバント安打を決められたが、7回を投げて10三振を奪い、許したヒットはこれ1本。8点の大量リードもある。怪物は山本監督に「大橋を投げさせてもらえませんか」と申し出た。 下手投げの同期生とはちょっとした因縁があった。高校受験に際して江川は小山高に願書を出していた。江川と同じ高校だったらエースにはなれない。そう考えた大橋は江川を避けて作新学院に入ったら…。急きょ進学コースのある作新学院に方向転換した江川がいたというわけである。 大橋は2イニングを無安打に抑え、2人で1安打の完封リレー。これが甲子園で最初で最後の登板になった大橋だが、この年のドラフトで大洋(現DeNA)から2位指名される。それほど力のある投手だった。 続く準々決勝では今治西(愛媛)を7回2死までパーフェクト。3番打者に詰まりながらセンター前に運ばれて快挙は逃したが、この1本に抑えた。奪った三振は2回1死から4回までの8連続を含む20。1回戦の北陽戦を1つ上回った。 江川氏「覚えてる。センター前ヒットね。6回終わってヒットがなかったからいけるかもしんないなと思った。北陽のときより調子がよかったから。真ん中高め、やや外寄りの球だったと思う。よけいなことを考えるとやっぱりダメだね」 怪物にとってこれが甲子園におけるベストピッチとなる。翌日の広島商(広島)との準決勝が雨で順延となって運命が狂っていった。 ~雨で順延 激しいメディア攻勢 二度寝で首を寝違えた~ 準決勝のところが水入りで中1日の休養。本来なら歓迎すべきだが、順延ゆえの二度寝で大きなハンデを背負ってしまったのである。 江川氏「疲れてたからもう1度寝ようと思ったけど、部屋では無理。それで2階の食堂に行ってカーテンの横にある長いソファーに寝たら、寝違えたんだ」 甲子園入りしたときから続いていた取材攻勢。宿舎のホテル芦屋には連日、記者が殺到した。部屋の館内電話は鳴りっぱなしで、中にはアポなしで部屋をノックしてくる記者もいる。準決勝当日は午前8時35分に順延が決定。江川は報道陣を避けるために部屋を出た。 首が回らない。左を向くのが苦しい。当然、投球フォームにも微妙に影響した。仕切り直しの一戦。制球が定まらない。しかも本塁寄りに立って高めを捨ててくる広島商打線に対してボールが先行。初回から6打者連続でフルカウントと粘られて2回には3四球を出した。それでも4回までは無安打と耐えたが、5回1点を先制した直後、前年秋から続けていた無失点記録が139イニングで途切れることになる。 1死から達川(後に広島)に与えた四球がきっかけだった。ヒットエンドランがかかった町田の打球は三ゴロになり達川が二進。続く佃の詰まった打球が中前に落ち、チーム初安打で追いつかれた。 8回に失った決勝点も先頭の金光に与えた四球からだった。1死後、金光が二盗。2死後、楠原の内野安打で一、二塁。ここで広島商ベンチはダブルスチールを仕掛けてきた。小倉(現姓亀岡)の三塁送球は高く外れ、金光の生還を許してしまうのである。 江川氏「2アウトだったから“投げるな”と叫んだんだけど、歓声で聞こえなかったんだね。走られたのは、そもそも寝違えで一塁が見えないから、けん制ができない。小倉も球がいってないのがわかってるから自分で刺してやろうと思ったんじゃないかな。正直悔しかったけど、決勝点がエラーだったから“悔しい”とは言えなかった」 許したヒットはわずか2本ながら8四球が響いての敗戦。三振は11個奪い、4試合で60となった。従来の大会最多奪三振記録54を更新。この記録は今も破られていない。強烈な印象と奪三振記録を残して甲子園を去った怪物。寝違えを誘った雨に夏はまた違った形で運命を左右される。 ~栃木決勝ノーヒットノーランで夏の聖地へ~ センバツから帰ると招待試合の申し込みが殺到した。お目当てはもちろん江川だ。毎週末、北陸や九州に行って2試合。1試合は完投して、もう1試合はリリーフで顔見せをした。5月には沖縄特別国体、春季関東大会があり、走り込みも投げ込みもできなかった。 江川氏「へばってましたね。それでも春と夏1回ずつは甲子園に出たいと思ってたから予選は必死だった」 十分な調整はできなかったが、夏の栃木大会の成績は凄まじかった。 初戦の2回戦、真岡工を相手に21奪三振、1四球のノーヒットノーランで幕を開けた。3回戦の氏家戦も15奪三振、失策1のノーヒットノーラン。準々決勝の鹿沼商工、準決勝の小山高はともに1安打に封じ、決勝では宇都宮東を14奪三振、失策の走者を2人許しただけのノーヒットノーランで春夏連続の甲子園を決めた。 5試合中3試合がノーヒットノーラン。44イニングをわずか2安打に抑え、75三振を奪った。まさに怪物の夏である。だが、この成績にチームとしてのもろさがのぞいていた。エースが圧倒的な投球をしながら得点は4、2、5、6、2。コールド勝ちが1つもなかった。 江川氏「センバツから帰ってからさらに打てなくなっていた。(チームが)もっとバラバラになっていたというのが一番かな。俺の話題ばかりだから。ふて腐れたみたいなイメージ。嫌気がさしてたという表現が正しいかな」 一体感など無縁。江川の図抜けた才能におんぶにだっこのチームだったのである。「夏も行ってみたい」という強い思いでつかんだ甲子園切符。手にしたときには「ホッとしたけど、クタクタだった」という。 江川氏「あの夏の投球フォームを見るのは凄く嫌。春と全然違うから。疲労で肩が上がっていないんだ」 ~1回戦柳川商 苦闘219球23奪三振~ 1回戦の柳川商(福岡)から苦しい投球となった。0―0で迎えた6回2死一塁から3番の松藤に右中間を真っ二つに破られる。先制三塁打を許し、無失点記録は145イニングでストップした。 7回に同点としたが、勝ち越せない。1―1のまま延長戦に突入。ようやく決着がついたのは15回だった。2死一、二塁から和田の中前打でサヨナラ勝ち。7安打を浴びながら23奪三振。219球の粘投が実った。 1回戦の3日後、抽選で2回戦の相手が決まった。銚子商(千葉)である。前年の秋季関東大会準決勝で20三振を奪い、1安打完封した相手。この年の春季関東大会準決勝でも9奪三振ながら5安打1失点に抑えて勝っている。 江川氏「銚子商業は練習試合で23個三振を取ったことがある。4試合やって1度も負けていない相手。調子は悪いけど、負けるという風には思わなかった」 慢心があったわけではない。雨が降る中、9回まで7安打を打たれながら1点も与えなかった。だが…。銚子商の2年生エース、土屋の前に味方も点が取れなかった。 0―0のまま延長戦に突入。10回の無死三塁もしのいだ。雨足が強くなり、マウンドも打席もぬかるんできた12回。甲子園に別れを告げる瞬間がやってきた。 ~運命の銚子商戦 延長11回1死満塁 渾身の1球~ 先頭打者に四球を与え1死後、中前打を許して一、三塁。1番の宮内英を敬遠気味に歩かせて満塁とした。そして打者・長谷川のカウントが3ボール2ストライクになったとき、怪物はぎくしゃくしていたナインをマウンドに集めた。 江川氏「2アウトと勘違いしてた。1アウトだったんだよね。それくらい頭がボーッとしてた。雨、凄かったし。センバツからチームがおかしくなってたから、みんなには“自分の好きなボール投げたい。いいか?”と聞いたんだ。すると一塁の鈴木が“いいよ。おまえがいたから春も夏も甲子園来られたんだ。好きに投げろ”と言ってくれた。凄くうれしかった。ストライクというより一番速い球を投げようと思った」 最後の最後にやっと生まれた一体感。江川は思い切り腕を振った。雨を切り裂いた投球は高く外れた。押し出し。サヨナラ負けである。 江川氏「雨で手が滑ったとかいろいろ書かれたけど、自分の中では指に引っ掛かったいい球だった。ボールでよかったんだと思う」 その夜、ホテル芦屋に戻ってジュースで乾杯した。「なんであそこストライク入れないんだ」。チームメートから突っ込まれるのは初めてのことだった。 春は雨による順延から首を寝違え、夏は激しい雨の中で散った。だが、雨降って…。最後の一体感がせめてもの救いだった。 (スポニチアーカイブス 2015年4月号掲載)
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