鉄拳への挽歌
プロ野球球団、東北楽天ゴールデンイーグルスが6日、星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことを発表した。冥福をお祈りする。 感想を求める声がいくつか届いているので、星野氏について書いた文章を再掲することにした。
以下の原稿は2008年の11月にソフトバンククリエイティブが配信していたメールマガジン「ビジスタニュース」内でオダジマが連載していた「大日本観察」という連載コラムに向けて書いたもので、タイミングとしては、2009年開催のWBC監督問題で、星野氏の去就が騒がれていた事態を受けてのコラムということになる。
いまさら星野仙一をマナ板に乗せてどうしようと言うのか。確かに、WBC監督問題は終わった話だ。星野氏本人の資質についても、週刊誌誌上で議論(←星野氏本人によれば「バッシング」ということになるが)が一回りして、既に結論(「消えろ」ということ)が出ている。でも、近い将来、星野問題は、必ずや再燃する。そんな気がする。なんとなれば、来たるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)において、原ジャパンが優勝するとは限らないからだ。というよりも、確率論的に言って、原監督とそのチーム(←「サムライ・ジャパン」と呼ぶことになったようです《笑》)は、8割方、優勝できない。ベスト4に残れない確率も5割ぐらいはあるし、アジアシリーズで力尽きる可能性すら2割やそこいらは残っている。つまり、順当に行けば、原巨人は「負ける」のだ。と、優勝できなかったすべての場合において、「ほーら、やっぱり星野にしておけば」式の議論がまき起こる。これは避けられない。だって、星野派は滅び去ったわけではなくて、時にあらずと思って雌伏しているだけなのだから。サンスポあたりは、おそらく予定稿を書き始めている。「ニュースゼロ」も原ジャパン惨敗の想定で構成原稿を用意している。もちろん、仙一氏本人も、「原バッシングを」擁護するカタチの談話の中で、「負けた監督に対するメディアの非難が、いかに理不尽で残酷なものであるのか」を訴えるつもりでいるはずだ。で、最終的には、「原よ。言いたいヤツには言わせておけ。掛け値無しの真実は、ベンチの中央を占める孤独な指揮官にしか分からないのだから」ぐらいなところに着地するシナリオを思い描いているに違いないのだ。とすれば、その時(星野復活シナリオ発動の瞬間)に備えて、こちらもそれなりの構えをとっておかねばならない。戦術的には、星野仙一が水に落ちた犬の構えでいる今この時にこそ、思い切りそれを叩いておこうということだ。手負いのキツネを森に放ってはいけない。完全に息の根が止まるまで、踏みつけておかねばならない。二度と巣穴を掘り始めないように、だ。この度の「星野バッシング」は、北京五輪の惨敗を受けて始まったもので、表面的には、彼のチーム運営や采配を批判する議論だった。が、本質は違う、と少なくとも私はそう思っている。真実は、もっと深い部分に隠れている。単に、負けた監督に対する戦術的な批判や、チームの運営法をめぐる戦略上の議論であったのなら、こんなに長引くこともなかったし、これほど盛り上がることもなかったはずだ。といよりも、なにより、うちの国の野球ジャーナリズムは、戦術論で読者を引っ張れるほど成熟していない。別の言い方をするなら、野球は、そもそも一年間をかけてペナントを争う不確実性のスポーツ(←優勝チームでさえ、6割台の勝率しかあげられない。それほど実力差が結果に表れにくい競技だということ)だということだ。だから、トーナメントの短期決戦で実力を決するようなことは、原理的に不可能なのだ。その意味で、北京の惨敗について、星野氏が担うべき責任は、せいぜい半分までだ。残りの半分は、勝利の女神の気まぐれ。っていうか、丁半バクチ。それだけの話だ……と、野球ファンは、この程度のことは、わかっている。にもかかわらず、彼らの一部が星野を批判してやまなかったのは、星野が負けたからではない。星野が星野だったからだ。つまり、この度の、星野氏をめぐるあれこれは、「星野」という御輿を担いで商売をたくらんでいた勢力と、彼らが用意した「星野」という物語のうさんくささに辟易し、それの撤回と滅亡を望んだ側の人々による、かなり根の深い暗闘だった。だからこそ、星野の側に立つ人間たちと、それを葬り去ろうとする人々の間で闘わされた議論は、白熱し、迷走し、ネットを巻き込んだ一大ムーブメントとなって、最終的には球界のちゃぶ台をひっくり返すに至った次第なのである。ざっと経緯をふりかえっておく。1. 北京五輪惨敗:ま、時の運。細かいことを言えば色々と問題はあったが。2. 采配批判勃発:ダルビッシュ起用法、岩瀬の続投、GG佐藤のポジション、川崎、新井の怪我、などなど。3. 星野反論:帰国後の成田到着ロビーにて記者会見「失敗してもチャレンジするというのがオレの人生。それをたたくのは時間が 止まっている人間だよ」と。4. ナベツネによる擁護:WBCの監督問題について「星野くん以上の人物がいるかね? いるなら教えてくれよ」と語る。5. 出来レース:10月の中旬、WBCの監督を選任する有識者会議に委員の一人として招かれた野村楽天監督が「出来レースちゃうんか」と、会議の内幕について一言。6. 最強:星野監督で一本化されそうな流れを受けて、イチローが「本気で最強のチームを作ろうとしているとは思えない」と発言。7. 辞退:野村発言、イチロー発言、ネット上での星野批判の盛り上がりを受けて、星野氏が、自身のブログ上で、WBC監督の依頼を辞退する意向を表明。「パパ一人、こうまで悪者にされて……」という娘さんの発言を引用しつつ(笑)。8. 追い打ち:週刊Pでは、江夏豊氏による《星野仙一「WBC監督辞退」の真相は「鉄拳制裁」醜聞だ!》という旨の暴露記事を掲載。9. 一矢:サンスポの阪神コラム「虎のソナタ」に、星野問題総括の記事が載る。《要するに最有力候補に「星野仙一氏」という空気になったとたんに外野席がうるさくなった。後講釈で理由はなんとでもつくが、ズバリ「男の嫉妬」がウズ巻いていた。五輪に負けたことでこんなにひどい批判という名の“みそぎ”を受けさせられるとは星野氏は想定外だったろう。》《イチローさん、これでご満足ですか。一選手の発言が『監督のクビ』を飛ばしたのです。すごい時代になったもんだ。下克上…昔、阪神に巣食っていた“亡霊”が生き返ったのか…と思いましたョ。》だとさ。引用が長くなってしまったが、私としては、読者の皆さんに「色々な経緯があった」ということを知っていてほしかったのだ。決して、「バッシングがあって星野が辞退した」という単純な流れではなかったということを、だ。いまのところは、星野退場で幕が降りているかに見える。が、ここに至るまでは、様々な紆余曲折があった。種々雑多な観測気球が上がり、あれやこれやのプロパガンダが発動され、アジテーションが炸裂し、奇妙な説得が流れていたのである。星野氏自身について、思わぬ方向から復活の狼煙が上がったりもした。で、もう一歩のところで「星野リベンジ物語」というシナリオが動き出す運びになっていたのである。おそろしいことに。星野バッシングの流れを「男の嫉妬」と決めつけるような原稿が、全国紙の紙面に掲載されたりもした。おどろくべき記事だ。いったい誰が星野氏に嫉妬をしたというのだ?江夏豊氏か?野村克也氏か?理由は何だ?どうして彼らが星野氏に対して「男のシット」を燃やさねばならなかったというのだ?監督候補として名前が挙がらなかったから?星野氏みたいにメジャーなテレビ局の専属になっていないからか?当然のことながら、批判を「嫉妬」と決めつけるテの記事をそのまま鵜呑みにするほど、われら日本の野球ファンはおバカではない。2ちゃんねるの捨て台詞じゃあるまいし。まったく。チラシの裏以下じゃないか。とはいえ、この種の低次元な立論は、スポーツ新聞読者の読解力水準が、ある限界を下回った瞬間(←具体的に言うと、原ジャパンが惨敗して、野球ファンがトチ狂った状態に陥っているしばらくの間)に、あるいは、不気味な力を発揮することになるかもしれない。つまり、「負けた時に足の引っ張り合いをしていたのでは、日本の野球は強くならない。こういう時にこそ、球界が一つになれる人材を」てなことで、またぞろ星野が引っ張り出されてくることは、案外あり得るぞ、ということだ。ボロ負けに直面したファンは、一時的に、大変に愚かな人間になる。私は、それを恐れている。老婆心だと思うかもしれない。が、老婆にとって、明日はとても近い。ほとんど昨日と区別がつかないほどに。思うに、星野仙一は、日本プロ野球界に巣食う古い体質にとっての、最後の切り札の如き存在だ。昭和の時代を通じて、ずっと長い間、野球の周辺には、常に封建ニッポンの残り香がまとわりついていた。たとえば、戦前の一時期を軍隊で過ごした人々や、戦後生まれでも、体育会的秩序の中に自らの青春を捧げたタイプの人々は、野球のうちにある戦前的な要素に郷愁を抱いている。というのも、古い歴史を持つ団体競技である野球は、その発生当初から、軍隊の教練を模したトレーニングを取り入れ、軍隊ライクな秩序と精神性を柱に発展してきたスポーツだったからだ。なにしろ、右翼手、左翼手、遊撃手といったポジションの名前から、死球、捕殺、二重殺のような戦術上の用語にしてからが、既にして軍隊用語だったりする。ついでに言えば、野球における「塁」は、白兵戦における「塁」(防塁:戦術上の橋頭堡、ないしは土で作った砦)とほとんど選ぶところがない。そんな中で、攻撃側の選手は、「塁」を確保しつつ吶喊してくる突撃兵そのものであり、防御側の選手は、基地(ベース)にあって敵を迎え撃つ防人に相当する。すごい。要するに、野球は、人間をコマに使った軍人将棋みたいなゲームなのである。とすれば、指揮官が兵士に死を求めるのは、これは歴史の必然であり、兵が将に求める要素が「献身に値する父性」ぐらいなことになるのもまた、理の当然てなことになる。死と侵略をめぐるロマン。無論、こんな議論は、ファンタジーだ。それも、はるか昔に滅びた、古くさい軍靴のニオイのする、カビの生えたイカサマに過ぎない。現在、この種のメタファーは、若い選手にはまるでアピールしない。アピールしないどころか、お笑いぐさだ。が、野球ファンの一部には、今なお、チームに軍隊の幻を追い求める人々がいることは事実で、そういう彼らの目から見て、星野仙一が、最後の将軍に見えていることもまた、おそらく事実なのだ。島岡人間力野球の衣鉢を継ぐ黄金の熱血精神力野球。明治の父の如き威容……と、それが、私にはうっとうしいのだよ。「サムライ・ジャパン」だとかいう、間抜けなキャッチもさることながら。いいかげんに近代化しようではないか。でないと、今度こそ本当の終わりだぞ、と、そういうふうに私ども野球の古くささに辟易してきた古手の野球ファンは、プロ野球の行く末を懸念しているのである。もっとも、星野氏の軍隊式野球そのものは、その実、単に古くさいだけのものではない。それなりの内実を備えてもいる。が、星野野球それ自体の戦術や采配については、ここでは論評しない。というのも、私はその任ではないからだ。野球経験も無い一運動音痴が、こんなところで半可通の識見を振り回しても仕方がないわけだし。ここでは、星野氏の処世について語る。星野氏一流の処世術は、彼の背景を見事に演出せしめている。それゆえ、星野氏は、数社の一流企業のCMキャラクターに収まり、そのことで球界の集金構造の一端を担う存在に登り詰めた。で、事実、WBCのスポンサーとなっている企業のいくつかは、星野氏の個人的スポンサーと重複している――ということは、つまり、星野仙一を後押ししているのは、老野球ファンの郷愁だけではないということだ。むしろ、野球に理解を示す財界人を糾合するための御輿として、星野仙一氏を利用せんとする一派がいたと言った方が実態に近いのだと思う。それはそれで良いのだ。野球はカネが無いと動かない競技なのだし、代表監督にとって、スポンサーを集めてくることは、ある意味で、ベンチで選手を操縦する能力よりもずっと重要な任務だ。その意味で、星野を推す人々が、彼の人脈や財界コネクションを重視したことは、必ずしも的はずれではない。さよう。重要なのは、星野氏の処世だ。彼が、支持されている理由は、おそらくそこにある。「あいつは、世渡りが上手い」と。だから、「代表チームの監督として、国際舞台に打って出る人物は、なにより世渡り上手であるべきだ」という見識は、それはそれで一理あると私もそう思っている。でも、その一方で私は、星野氏がその処世上、ずっと看板として掲げているドラマに、どうしても同調できずにいる。具体的に言うと、私は、彼がある時期から掲げて来た「男・星野」という仮構に、ずいぶん前から食傷していたのである。それに、オリンピックに先立って「星野の夢」を商標登録しているみたいな、そういう彼自身の抜け目の無さが、なんだか信用できないわけです。若手選手に対して鉄拳制裁を辞さない秋霜烈日な指導を繰り返す一方で、ベテラン選手やコーチ陣の夫人たちの誕生日を暗記し、その当日にバラの花を贈る気遣いを怠らない繊細さを併せ持っている……とか、そういうエピソードを、私はすっかり聞き飽きてしまったのだな。もう何年も前から。母子家庭に生まれ、人生半ばにして伴侶(奥さん)の死に遭遇したという、民放でドラマ化されがちなプロットのドラマ性も、だ。こういう種類の悲劇性をまとった「父性」に憧憬を抱く者が、今の時代にも少数ながらいることそれ自体は、理解できないでもない。が、「理想の上司」を尋ねるテのアンケートの上位に、必ず星野仙一の名前がランクインしていることは、これは、鵜呑みにするわけにはいかないデータだと思っている。メディアは、スポンサーのために動いているわけだし、そのスポンサーは、星野を通して何かを成し遂げようとしている存在であったりするからだ。私がいま言っていることはあるいは邪推なのかもしれない。でも、事実がどうであれ、はっきりしているのは、感覚として私がこの人をどうしても信用できずにいることだ。保険会社や、カレーの会社や、胃薬の会社は、星野氏が「理想の上司」だから起用している、と、事実は、その通りなのかもしれない。でも、私の目には、保険の会社や、カレーの会社や胃薬の会社が広告会社と結託して、星野氏を「理想の上司」に仕立て上げている、というふうに見える。だって、そういうことにしておけば、関係者の全員が得をするから。野球ファン以外の全員が、ということだが。結論を述べる。星野氏については、その「鉄拳」がいけない、と私は考えている。指揮下にある人間を対象とした暴力は「論外」に属するお話で、指導者としての資質を云々する以前の、人としての最低限のモラルおよび市民社会のメンバーとしての基本的な資格を問われるべき問題だ。これまでの、議論は、前置きに過ぎないと言い直しても良い。ともあれ、二十一世紀の人間は、どんな理由であれ、下の立場の者に向けて暴力を発動する人間を容認してはいけないのである。私自身、オトナになる前に、かなりの頻度で「鉄拳」を浴びて来た側の生徒だった。その経験から申し上げるに、熱意が暴走して手が出てしまったり、部下を思う気持ちの強さゆえに、思わず叩いてしまうというタイプの上司がいないわけではないし、彼らの「体罰」を、全否定しようとも思ってはいない。いずれにしても、そういう人々(自ら痛みを持って生徒を叩く教師)は、必ず、謝罪する。だから、彼らの体罰は、繰り返されない。逆に言えば、継続的に暴力を繰り返す人間の暴力には、そもそも愛情も誠意も情熱も宿っていないと見なさなければならない。部下に対して日常的に発動されていた星野仙一氏の鉄拳は、確信を持って繰り出される、組織運営上の手段としての暴力である。いったい誰がこんなものを容認できるだろうか。「鉄拳」体質については、ある時期から(たぶん、阪神に移ってから)、突然報道されないようになった。もちろん、中日で監督をやっていた時代も、鉄拳についての記事は、ごく控えめにしか書かれなかったし、記事化される場合でも、「熱血の行きつく果ての鉄拳」「男星野、情熱のコブシ」ぐらいな、講談調の文脈で語られるのがせいぜいではあった。二十一世紀に入って後、ジャーナリズム的に、体罰は、どの角度からどう描いても弁護のしようの無いものになり下がってしまって、それゆえ、記者は一行も触れられなくなったということであって、星野氏の暴力が終息したわけではない。この件については、マーティ・キーナート氏が興味深い記事を書いている。「キーナート」「燃える男」「鉄拳制裁」ぐらいで、ググってみてほしい。「中村武志」「眉毛」でググっても良い。面白いテキストが読めると思う。原ジャパンは、おそらく優勝できない。でも、原ジャパンの敗北に伴って発生する、原バッシングは、たいして盛り上がらないはずだ。なにより、原辰徳は、涙目の似合う日本一の謝罪キャラだし、それに、日本の野球ファンは、この20年でずいぶん成熟したはずだから。もし、原辰徳が人格攻撃含みの猛バッシングを浴びて、星野待望論がマジで力を持つのだとしたら、今度こそ私は日本の野球を見捨てようと思う。勝てば無問題なわけだが。
(了)
以上です。
現役時代、投手としての星野仙一氏には敬意を感じていました。
ただ、監督に就任してからの「鉄拳」を辞さない指導方針には共感できませんでした。
星野氏の高圧的なチームマネジメントを「熱血指導」として持ち上げるスポーツマスコミの報道に対しても、強い忌避感を抱きました。
故人の死去を受けて、その「熱血指導」が、不当に美化されつつある空気を感じたので、上記コラムに不快感を持つ読者もいるだろうことは承知しつつ、あえて掲載することにしました。
あらためて星野仙一氏のご逝去に心からの哀悼の意を表します。
※ なお、上記テキストは、掲載分ではなく、ハードディスクの中にあった校閲前のナマ原稿であったため、2018年1月6日の時点で誤字脱字を修正し、あわせて文章の調子を若干整えています。