印象が薄いのは、守備ポジションがよく変わり、どういう選手なのか得体が知れない感じだからだろう。
顔だけ見たら新人選手みたいである。
それにしても、クルーズを使わない、という高橋監督の意志は固いようだ。もったいない。ロッテに返せばいいのに。
横浜は外人野手が3人もいるから、不要だろう。
ところで、現在のところ、巨人は中井、立岡、岡本、長野、小林と、さほど打てない選手が先発メンバーに5人もいる。それで勝てているのが凄い。横浜の打線がこれより下だとは思えないのだが、巨人との勝敗の差は何か。投手陣だけの話ではないだろう。言うまでもなく、采配と選手の意識の差だと思う。要するに、勝つためには何をすべきか、という個々の意識の差だ。まあ、それを教えるべきなのが首脳陣なのだが、ラミレス自身、勝利のために戦った経験はほとんど無いように思う。個人成績を残すための野球頭脳はあったと思うが、それはチームが勝つための知識や戦略ではない。彼にチームの勝利への意志が現役時代にあったなら、あんなヘボな守備の選手になったはずはない。それは金本も同じである。
結論。現役時代ヘボ守備の選手を監督にすべからず。もっとも、高木守道のように守備の名選手がヘボ監督になることもあるが、一般論としてそうなる。
そもそも外野手は内野で起こる出来事を「見ていない」のである。つまり、野球観戦経験という点では外野手出身監督は茶の間の素人にも劣るとすら言える。例外は、栗山のように外部から野球を見た経験が豊富で、研究熱心な場合だけだろう。
中井大介
読売ジャイアンツ #61 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 三重県伊勢市 |
生年月日 | 1989年11月27日(27歳) |
身長 体重 | 183 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手、外野手 |
プロ入り | 2007年 高校生ドラフト3巡目 |
初出場 | 2009年5月12日 |
年俸 | 1,400万円(2017年)[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
中井 大介(なかい だいすけ、1989年11月27日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
伊勢市立進修小学校(進修スポーツ少年団)1年時に内野手として野球を始め、伊勢市立五十鈴中学校(鈴鹿シニア)3年次からは投手を兼任。宇治山田商業では1年夏から遊撃手のレギュラーを獲得し、1年秋からは左翼手兼投手として活躍。3年夏には投手兼右翼手として甲子園に出場。その年の優勝校の佐賀北に再試合の末に敗れた(詳細)。投手としてはMAX146km/hの速球でエースとして活躍し、打者としても高校通算28本塁打、三重県大会で打率.667を記録[2]。同校の先輩の江川(ソフトバンク)2世とも呼ばれた[3]。
2007年の高校生ドラフトで巨人から3巡目で指名され、10月31日、契約金5000万円年俸540万円で仮契約。背番号は94。野手としてプロ入りすることになったため、新人合同自主トレに向けて外野手用と内野手用のグラブを用意。目標の選手として二岡智宏の名前を挙げた[4]。
プロ入り後[編集]
イースタンリーグ開幕戦に「7番三塁」でスタメン出場。フレッシュオールスターゲームでは「4番遊撃手」として、本塁打、三塁打など3安打の活躍で優秀選手賞に選ばれた。後半戦は4番を任されることも増え、イースタンリーグで96試合に出場。12球団トップの105三振を喫したが、367打数96安打、打率.267、チーム最多の本塁打10、50打点。最多安打のタイトルを獲得した。
この年より坂本勇人の背番号61を継承し、登録も内野手に変更。1月には高橋由伸の合同自主トレに参加[5]。春季キャンプでは一軍に入り、新人の大田泰示と競わされた[6]。開幕一軍はならなかったが、5月12日に一軍初昇格。同日の横浜戦に「8番二塁手」でスタメン出場し、プロ入り初出場を記録。球団史上初の平成生まれの一軍出場選手となった。しかし、3打数3三振と結果を残せず二軍降格。6月8日に再昇格すると、同日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に「8番三塁手」として出場しプロ入り初安打[7]。9月11日の広島東洋カープ戦ではマツダスタジアムのバックスクリーン右へ「平成生まれの選手初ホームラン」を放った[8]。
前年と同じく高橋由伸、亀井義行らの合同自主トレに参加。オープン戦で活躍を見せ、自身初の開幕一軍入りするも定着には至らず。6月25日のイースタン・リーグ東北楽天ゴールデンイーグルス戦で右足の靭帯を痛め[9]、イースタンリーグ終了後の10月4日に右足甲関節固定手術を受けた[10]。
序盤は右足のリハビリに費やしたが、6月5日に一軍昇格し「7番一塁手」でスタメン出場[11]。このシーズンは二度の一軍昇格があったが、出場機会に恵まれず結果も残せなかった。一方、ファームでは7月のイースタンリーグMVPを受賞[12]するなど主軸として90試合に出場。秋季キャンプでは原辰徳監督から直接指導を受けた[13]。
イースタンリーグ開幕戦に「4番二塁手」でスタメン出場し本塁打を放つ[14]。5月8日にシーズン二度目の昇格、同月11日の横浜戦で「8番一塁」としてスタメン出場[15]。9月7日にシーズン四度目の昇格、同日のヤクルト戦で3年ぶりとなる安打を放った[16]。二軍では打率でイースタンリーグ3位の.323を記録。また、48打点、116安打で打点王と最多安打のタイトルも手にした。
6月3日の埼玉西武ライオンズ戦で自身初の一番打者として起用されると、勝ち越しタイムリーで勝利に貢献。その後も1試合4安打を記録するなど好調をキープしていたが、同月12日の全体練習に寝坊で1時間遅刻し、川相ヘッドコーチの判断により即二軍降格となった[17]。2週間後に1軍復帰すると、空いていた正・二塁手に定着した。しかし、8月4日の阪神戦でダイビングキャッチを試みた際に左膝靭帯を損傷[18]。翌日に登録を抹消された。10月末に一軍に合流し、日本シリーズ第5戦では「7番一塁」として先発出場した。シーズン終了後、背番号が36に変更された。
前年に痛めた左膝、春季キャンプ中に故障した右肘の影響で出遅れ、開幕を二軍で迎える。5月23日に一軍昇格すると、同月25日の北海道日本ハムファイターズ戦に「1番左翼手」で先発出場。翌26日には人生初のサヨナラヒットを放った[19]。
4月29日の中日ドラゴンズ戦では、初めて4番打者(球団史上83代目)としてスタメン出場を果たした。
シーズン終了後の11月5日、背番号が61に再び変更された。
1日に一般女性と結婚した。元日婚でもある。
選手としての特徴[編集]
打撃では天性の「ゆっくりしたスイング」から放つ強い打球を持ち味とし[20]、守備では内野4ポジションに加え外野手もこなす。2013年に陽岱鋼を参考に打撃フォームを改造したことで一軍で結果を残せるようになった[21]。イースタンリーグでは2008年は三塁手、2009年は三塁手および遊撃手、2010年・2011年は三塁手、2012年は二塁手としてプレーした。