ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「超訳コネクト」から転載。
見事な評論である。
● 「名無しの男の原型」
評価:★★★★★★★★★☆
黒澤作品の中では、日本で最も大きな商業的成功を収めたのが「用心棒」だ。批評家や映画ファンの中には、この作品はそれほど深みのあるものではなく、娯楽要素の強いアクション映画だったから商業的に成功したのだと語る者もいる。しかし、この一年足らずのうちに三回この映画を観た私としては、こうした意見には賛成しかねる。娯楽要素があって楽しめる映画であるということは確かだ。だが、黒澤明と菊島隆三が書いたこの映画の脚本には見かけより深い内容が表現されているのだ。
「用心棒」について、何よりもまず先に理解しておかなければならないのは、この作品がダーク・コメディであるということだ。黒澤はそれまでも陰気で気の滅入りそうな場面だからこそ生まれるユーモアを表現しようとしてきた。そして、その黒澤の願いが叶えられたのが「用心棒」なのだ。三十郎という主人公の侍が黒澤の代理人を務めていて、黒澤がやりたいことを三十郎が映画の中で実行してくれる。三十郎が現実に存在していそうな登場人物に見えないのは、そのせいなのだろうと私は解釈している。
三十郎のように謎めいていて無骨で、放浪中にほとんど自分と関わりのなかったことに巻き込まれていくという主人公は、映画の世界ではおなじみの存在だ。このキャラクターの原型は、黒澤が愛してやまないアメリカ西部劇の中にあったのだが、確立させたのは黒澤だ。そのため、「用心棒」以降、この三十郎に深く影響されて作られた登場人物はたくさんいる。たとえばクリント・イーストウッドが演じた「名無しの男」、あるいは「マッドマックス」にもこうしたキャラクターが登場する。
ストーリーに関しては、映画が作られた当時の日本の状況を意識して作られている。主人公の三十郎がたどり着いた町はひと気がなく、薄気味悪い雰囲気だ。この町は対立する二つの集団に支配されていた。それぞれの集団の中心にいたのは商人だ。商人たちは用心棒としてならず者たちを集め、ならず者たちは金のために商人を必要としていた。こうした図式は、経済がたくましく成長していた頃の日本社会を映し出している。企業家と政治家は日本に富をもたらす一方で、裏ではヤクザの助けを得ていたのだから。
黒澤は映画製作当時の「今」の状況に光を当てるために、あえて過去の世界を舞台にしたのだ。そして、今の世界に向けて語りたい哲学を表現させるために三十郎を使った、私はそう考えている。ある意味で、黒澤流に歴史を書き換えたのが、この「用心棒」なのだろう。日本の実際の歴史では、侍階級は存在感を失っていき、商人たちが台頭するようになった。しかし、黒澤の空想する歴史では三十郎を使うことで侍を墓地から呼び戻し、ならず者たちを一掃させ、町をきれいにさせるのだ。
この作品は撮影術も素晴らしい。望遠レンズを使ったシーンがかなり多く、格好いいショットが随所に散りばめられている。画面構成の見事さ、役者たちの配置の仕方に関しては黒澤に並ぶ者はいないと言っても良いくらいだ。ワイドアングルで撮影されたシーンについても黒澤と撮影の宮川一夫に畏敬の念を抱かずにはいられない。街角を捉えた屋外のシーンなどは実に見事だ。三十郎がならず者たちと対峙するシーンでは、機械で作られた風が非常に効果的に雰囲気を盛り上げてくれる。
アクションシーンの撮影に関しては、黒澤はかなりシンプルな手法を採る。多くの映画で見られるように、短いカットを次々に切り替えていくような手法は採らない。彼は対角線上に2台のカメラを置いて撮影し、あとは編集やカメラワークよりも役者たちの動きの方を全面的に信頼するというスタイルだ。
それから、なんといっても、スクリーンの大半を占める三船敏郎の存在感の大きさは見事だ。彼からにじみ出る重厚さ、そして力強さ。チャーミングで、頭の回転も早く、柔和でもありながら、必要に応じて凄まじく攻撃的にもなるという三十郎の役柄に矛盾を感じさせることなく演じきれているのだ。三船は男性的かつ強烈な個性を、この作品に残してくれた。彼がならず者たちの行動を操る姿、そして直接対決する姿は実に痛快だった。仲代達矢も三船の一番の敵役として心に残る演技を見せてくれた。目を輝かせながら、力の象徴ともいうべきピストルを誇示する彼の振る舞いも、三船同様、強い個性を感じさせてくれた。
「用心棒」は、黒澤が生んだ他の傑作「羅生門」や「赤ひげ」ほど複雑な作品ではないかもしれない。だが、「用心棒」には伝えるべきメッセージが込められているし、この作品について語られるべきこともまだ残されている。
黒澤の卓越した映画作りの能力が、映画というものを新たなレベルにまで引き上げてくれたのだ。必見の作品だ。彼が生み出した最高傑作の一つであることは間違いない。強くおすすめしたい。
200214_04.jpg
● 「人間は人間にとって狼である」
評価:★★★★★★★★★☆
「人間は人間にとって狼である」という有名なラテン語のフレーズが、黒澤明の21番目の監督作品である「用心棒」を説明するのに相応しい。
「用心棒」は純粋かつ完璧な侍映画だ。侍映画に必要な要素は、外見上も内面に流れる思想もすべてが揃っている。侍映画の歴史は1930年代~1940年代まで遡れるが、この力強いジャンルが本当に確立されたのは1950年代前半で、ちょうど日本の映画が最初にヨーロッパで公開され始めた頃と同じ時期だ。それから現在に至るまでずっと生き続けているジャンルだが、「用心棒」は、疑問の余地なく全ての侍映画の中で5本の指に入る傑作だ。この優れた作品に登場する架空のキャラクターたちは皮肉まじりのユーモア、そして永遠の課題とも言うべき、人間の弱さを表現している。
ところで、侍映画というジャンルは西部劇との共通点も多い。アメリカの伝承から生まれたのが西部劇なら、日本の伝承から生まれたのが侍の物語だ。西部劇について黒澤はこう語ったことがある。
「良い西部劇は誰もが好きです。誰もが弱いので、好ましい登場人物と偉大なヒーローを観たくなるからですね。西部劇は繰り返し繰り返し何度も作られてきました。そして、その過程の中で確かな文法ともいうべきものが確立されていったのです。僕もその中から何かを学べたと思いますね。」
西部劇も侍映画も、共にそれぞれの国の歴史の中で重要な時代を舞台にしている。そして武器をとって戦うヒーローたちに焦点を当てている。そうしたヒーローたちは、時に社会の末端にいる者だったりすることもある。彼らが秩序を取り戻したところで、それが新たなより良い社会を作ることにはつながらないと知りつつも、武器をとって戦うのだ。「用心棒」の中でも、まさにこの通りの物語が展開される。
黒澤には、遠い昔の時代を舞台にして自らの物語を作る癖があった。これは封建的な制度を嫌う自らの思想がプロデューサーや映画会社重役たちを怒らせないようにするためだ。現代と直接結び付けられることなく、彼は大きなスクリーンで自由に自分の思想を表現することができた。だからこそ、彼は侍映画を熱心に研究したのだ。
「用心棒」のストーリーは、今となっては古典的と思える。ただし、それはこのストーリーが後に多数の作品に借用されてきたからでもある。例えば「荒野の用心棒」(1964)、「ラストマン・スタンディング」(1996)などだ。用心棒という日本語はボディガード、またはヒットマンを意味する言葉で、まさにこの映画の主人公のことを指す言葉でもある。ストーリーは以下の通りだ。
三船敏郎が演じる名もなき侍がある町にやってきた。そこにはやくざ者たちの組織が二つあり、日々、抗争を繰り広げている。侍はその片方に雇われることになった。だが、雇われているふりをしながら、侍は彼らを欺いていたのだ。侍の本当の狙いは二つの組織を共倒れさせることだった。騙されていることに気づいたやくざ者は侍を痛めつけ、監禁する。どうにか逃げ出した侍は身を隠しながら体の回復を待っていた。その間に抗争は激しさを増し、とうとう一方の組織が壊滅に追い込まれた。数日後、回復を遂げた侍は再び町に現れ、残るやくざ者達をすべて切り伏せる。そして彼は平和になった町を後に去っていく…。
主人公が訪れたのは善と悪が対立する町ではない。悪と悪の対立であり、主人公の侍はどちらに付こうとも、悪しか選択肢はないという状況だ。これは映画を観ている我々にとって、馴染み深い状況でもある。我々としては争いをやめさせたいのだが、力がなくて、それを実現させることはできない。だが、「用心棒」のヒーローは我々と違う。彼には悪と悪の間に立ち、争いを終わらせる力がある。黒澤にとってこの種の社会的行為は、彼の他の作品を観ても、非常に重要なテーマであるはずだ。だが、彼はあえて大げさに騒ぎ立てたりはしない。侍の行動の裏には、実は隠れた道徳観があったなどという描写も一切行わない。
「用心棒」が我々に見せてくれるのは「人間は人間にとって狼である」ということであり、人間の本来の姿は動物であるということだ。だからこそ、道徳的に正しい解決方法を探ろうということ自体、極めて馬鹿げたことなのだという現実を示している。さらにそこから生まれるユーモアをも感じさせてくれる。「用心棒」からのメッセージの一つは、完璧に正しい倫理観を通じて世の中を見つめることなどできない、ということだ。幸福と利益を価値の基準にするという考え方と同様、正しい倫理を基準にするという考え方も黒澤の世界の中では崩れ去ってしまう。
主人公の侍、三十郎は常に悪いことをしようとするわけではない。それは彼の美徳と言えるかもしれない。だが、それだけのことだ。彼は表面上良いことに見えても、実際は利己的な動機に基づく行動をとってしまうことだってある。一方の悪がもう片方の悪に勝つよう、彼が手助けする場面もあるが、それは連帯感からでもないし、道徳観とも無関係だ。そして自分の役目を果たし終えれば、彼は歩いて行ってしまい、全てを忘れ去るだけなのだ。彼の行動はギリシア悲劇に出てくる神に似ている。地上に舞い降り、務めを果たし、また去ってしまう。あるシーンでは、三十郎は高い火の見やぐらの上に登り、これから争いを始めようとするやくざ者達を楽しそうに見下ろしたりもする。彼にとって人間の営みは、単なる壮大なコメディなのだ。
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こうした物語が、閉ざされ、単純化された世界の中で展開していくのだ。欲望はむき出しにされ、情け容赦無く、完璧に利己的かつ非倫理的な世界だ。やくざ者たちの残酷な姿は彼らの親分が息子を諭す時の「少しは人を殺してみせなきゃ、子分にもにらみが利かねえぞ。」という言葉に、最も明確に表れている。まさに動物の世界だ。
「用心棒」には、黒澤の自己風刺に近いのではないかと思えるシーンも時折ある。例えば、銃を持つ登場人物、卯之助は黒澤のニヒリスティックな世界観をよく表しているのではないだろうか。無邪気で好奇心旺盛な卯之助は、向こう見ずな行動をとる。腐敗した世界は、その教訓を彼の体に叩き込む。結果として、彼は自らの墓穴を掘る事になってしまうのだ。「用心棒」は純然たるジャンル映画だが、こうした個人的な視点や主観も強く盛り込まれた作品だ。
そして、実は人間が守るべき道徳についても語っている。もちろん、これまで書いてきたように、主人公は道徳的な人間ではない。「町をきれいにする」という彼の行動の裏に隠れた立派な動機があったりするわけではない。むしろ彼はシニカルで哀愁を漂わせ、道徳心などは明らかに欠けている。ただ、そんな主人公の姿を動物的な世界の中で強烈に見せつけられるからこそ、ここに欠落した道徳心、そして人とはいかに生きるべきかというテーマが観客の心に強く浮かび上がらざるを得ない。そして、それでも三十郎のような存在を必要とする我々の弱さと矛盾にも気づかずにはいられないのだ。
「用心棒」は人間の本質、そして道徳心と倫理的なジレンマを描いた壮大な作品である。
(翻訳終わり)
見事な評論である。
● 「名無しの男の原型」
評価:★★★★★★★★★☆
黒澤作品の中では、日本で最も大きな商業的成功を収めたのが「用心棒」だ。批評家や映画ファンの中には、この作品はそれほど深みのあるものではなく、娯楽要素の強いアクション映画だったから商業的に成功したのだと語る者もいる。しかし、この一年足らずのうちに三回この映画を観た私としては、こうした意見には賛成しかねる。娯楽要素があって楽しめる映画であるということは確かだ。だが、黒澤明と菊島隆三が書いたこの映画の脚本には見かけより深い内容が表現されているのだ。
「用心棒」について、何よりもまず先に理解しておかなければならないのは、この作品がダーク・コメディであるということだ。黒澤はそれまでも陰気で気の滅入りそうな場面だからこそ生まれるユーモアを表現しようとしてきた。そして、その黒澤の願いが叶えられたのが「用心棒」なのだ。三十郎という主人公の侍が黒澤の代理人を務めていて、黒澤がやりたいことを三十郎が映画の中で実行してくれる。三十郎が現実に存在していそうな登場人物に見えないのは、そのせいなのだろうと私は解釈している。
三十郎のように謎めいていて無骨で、放浪中にほとんど自分と関わりのなかったことに巻き込まれていくという主人公は、映画の世界ではおなじみの存在だ。このキャラクターの原型は、黒澤が愛してやまないアメリカ西部劇の中にあったのだが、確立させたのは黒澤だ。そのため、「用心棒」以降、この三十郎に深く影響されて作られた登場人物はたくさんいる。たとえばクリント・イーストウッドが演じた「名無しの男」、あるいは「マッドマックス」にもこうしたキャラクターが登場する。
ストーリーに関しては、映画が作られた当時の日本の状況を意識して作られている。主人公の三十郎がたどり着いた町はひと気がなく、薄気味悪い雰囲気だ。この町は対立する二つの集団に支配されていた。それぞれの集団の中心にいたのは商人だ。商人たちは用心棒としてならず者たちを集め、ならず者たちは金のために商人を必要としていた。こうした図式は、経済がたくましく成長していた頃の日本社会を映し出している。企業家と政治家は日本に富をもたらす一方で、裏ではヤクザの助けを得ていたのだから。
黒澤は映画製作当時の「今」の状況に光を当てるために、あえて過去の世界を舞台にしたのだ。そして、今の世界に向けて語りたい哲学を表現させるために三十郎を使った、私はそう考えている。ある意味で、黒澤流に歴史を書き換えたのが、この「用心棒」なのだろう。日本の実際の歴史では、侍階級は存在感を失っていき、商人たちが台頭するようになった。しかし、黒澤の空想する歴史では三十郎を使うことで侍を墓地から呼び戻し、ならず者たちを一掃させ、町をきれいにさせるのだ。
この作品は撮影術も素晴らしい。望遠レンズを使ったシーンがかなり多く、格好いいショットが随所に散りばめられている。画面構成の見事さ、役者たちの配置の仕方に関しては黒澤に並ぶ者はいないと言っても良いくらいだ。ワイドアングルで撮影されたシーンについても黒澤と撮影の宮川一夫に畏敬の念を抱かずにはいられない。街角を捉えた屋外のシーンなどは実に見事だ。三十郎がならず者たちと対峙するシーンでは、機械で作られた風が非常に効果的に雰囲気を盛り上げてくれる。
アクションシーンの撮影に関しては、黒澤はかなりシンプルな手法を採る。多くの映画で見られるように、短いカットを次々に切り替えていくような手法は採らない。彼は対角線上に2台のカメラを置いて撮影し、あとは編集やカメラワークよりも役者たちの動きの方を全面的に信頼するというスタイルだ。
それから、なんといっても、スクリーンの大半を占める三船敏郎の存在感の大きさは見事だ。彼からにじみ出る重厚さ、そして力強さ。チャーミングで、頭の回転も早く、柔和でもありながら、必要に応じて凄まじく攻撃的にもなるという三十郎の役柄に矛盾を感じさせることなく演じきれているのだ。三船は男性的かつ強烈な個性を、この作品に残してくれた。彼がならず者たちの行動を操る姿、そして直接対決する姿は実に痛快だった。仲代達矢も三船の一番の敵役として心に残る演技を見せてくれた。目を輝かせながら、力の象徴ともいうべきピストルを誇示する彼の振る舞いも、三船同様、強い個性を感じさせてくれた。
「用心棒」は、黒澤が生んだ他の傑作「羅生門」や「赤ひげ」ほど複雑な作品ではないかもしれない。だが、「用心棒」には伝えるべきメッセージが込められているし、この作品について語られるべきこともまだ残されている。
黒澤の卓越した映画作りの能力が、映画というものを新たなレベルにまで引き上げてくれたのだ。必見の作品だ。彼が生み出した最高傑作の一つであることは間違いない。強くおすすめしたい。
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● 「人間は人間にとって狼である」
評価:★★★★★★★★★☆
「人間は人間にとって狼である」という有名なラテン語のフレーズが、黒澤明の21番目の監督作品である「用心棒」を説明するのに相応しい。
「用心棒」は純粋かつ完璧な侍映画だ。侍映画に必要な要素は、外見上も内面に流れる思想もすべてが揃っている。侍映画の歴史は1930年代~1940年代まで遡れるが、この力強いジャンルが本当に確立されたのは1950年代前半で、ちょうど日本の映画が最初にヨーロッパで公開され始めた頃と同じ時期だ。それから現在に至るまでずっと生き続けているジャンルだが、「用心棒」は、疑問の余地なく全ての侍映画の中で5本の指に入る傑作だ。この優れた作品に登場する架空のキャラクターたちは皮肉まじりのユーモア、そして永遠の課題とも言うべき、人間の弱さを表現している。
ところで、侍映画というジャンルは西部劇との共通点も多い。アメリカの伝承から生まれたのが西部劇なら、日本の伝承から生まれたのが侍の物語だ。西部劇について黒澤はこう語ったことがある。
「良い西部劇は誰もが好きです。誰もが弱いので、好ましい登場人物と偉大なヒーローを観たくなるからですね。西部劇は繰り返し繰り返し何度も作られてきました。そして、その過程の中で確かな文法ともいうべきものが確立されていったのです。僕もその中から何かを学べたと思いますね。」
西部劇も侍映画も、共にそれぞれの国の歴史の中で重要な時代を舞台にしている。そして武器をとって戦うヒーローたちに焦点を当てている。そうしたヒーローたちは、時に社会の末端にいる者だったりすることもある。彼らが秩序を取り戻したところで、それが新たなより良い社会を作ることにはつながらないと知りつつも、武器をとって戦うのだ。「用心棒」の中でも、まさにこの通りの物語が展開される。
黒澤には、遠い昔の時代を舞台にして自らの物語を作る癖があった。これは封建的な制度を嫌う自らの思想がプロデューサーや映画会社重役たちを怒らせないようにするためだ。現代と直接結び付けられることなく、彼は大きなスクリーンで自由に自分の思想を表現することができた。だからこそ、彼は侍映画を熱心に研究したのだ。
「用心棒」のストーリーは、今となっては古典的と思える。ただし、それはこのストーリーが後に多数の作品に借用されてきたからでもある。例えば「荒野の用心棒」(1964)、「ラストマン・スタンディング」(1996)などだ。用心棒という日本語はボディガード、またはヒットマンを意味する言葉で、まさにこの映画の主人公のことを指す言葉でもある。ストーリーは以下の通りだ。
三船敏郎が演じる名もなき侍がある町にやってきた。そこにはやくざ者たちの組織が二つあり、日々、抗争を繰り広げている。侍はその片方に雇われることになった。だが、雇われているふりをしながら、侍は彼らを欺いていたのだ。侍の本当の狙いは二つの組織を共倒れさせることだった。騙されていることに気づいたやくざ者は侍を痛めつけ、監禁する。どうにか逃げ出した侍は身を隠しながら体の回復を待っていた。その間に抗争は激しさを増し、とうとう一方の組織が壊滅に追い込まれた。数日後、回復を遂げた侍は再び町に現れ、残るやくざ者達をすべて切り伏せる。そして彼は平和になった町を後に去っていく…。
主人公が訪れたのは善と悪が対立する町ではない。悪と悪の対立であり、主人公の侍はどちらに付こうとも、悪しか選択肢はないという状況だ。これは映画を観ている我々にとって、馴染み深い状況でもある。我々としては争いをやめさせたいのだが、力がなくて、それを実現させることはできない。だが、「用心棒」のヒーローは我々と違う。彼には悪と悪の間に立ち、争いを終わらせる力がある。黒澤にとってこの種の社会的行為は、彼の他の作品を観ても、非常に重要なテーマであるはずだ。だが、彼はあえて大げさに騒ぎ立てたりはしない。侍の行動の裏には、実は隠れた道徳観があったなどという描写も一切行わない。
「用心棒」が我々に見せてくれるのは「人間は人間にとって狼である」ということであり、人間の本来の姿は動物であるということだ。だからこそ、道徳的に正しい解決方法を探ろうということ自体、極めて馬鹿げたことなのだという現実を示している。さらにそこから生まれるユーモアをも感じさせてくれる。「用心棒」からのメッセージの一つは、完璧に正しい倫理観を通じて世の中を見つめることなどできない、ということだ。幸福と利益を価値の基準にするという考え方と同様、正しい倫理を基準にするという考え方も黒澤の世界の中では崩れ去ってしまう。
主人公の侍、三十郎は常に悪いことをしようとするわけではない。それは彼の美徳と言えるかもしれない。だが、それだけのことだ。彼は表面上良いことに見えても、実際は利己的な動機に基づく行動をとってしまうことだってある。一方の悪がもう片方の悪に勝つよう、彼が手助けする場面もあるが、それは連帯感からでもないし、道徳観とも無関係だ。そして自分の役目を果たし終えれば、彼は歩いて行ってしまい、全てを忘れ去るだけなのだ。彼の行動はギリシア悲劇に出てくる神に似ている。地上に舞い降り、務めを果たし、また去ってしまう。あるシーンでは、三十郎は高い火の見やぐらの上に登り、これから争いを始めようとするやくざ者達を楽しそうに見下ろしたりもする。彼にとって人間の営みは、単なる壮大なコメディなのだ。
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こうした物語が、閉ざされ、単純化された世界の中で展開していくのだ。欲望はむき出しにされ、情け容赦無く、完璧に利己的かつ非倫理的な世界だ。やくざ者たちの残酷な姿は彼らの親分が息子を諭す時の「少しは人を殺してみせなきゃ、子分にもにらみが利かねえぞ。」という言葉に、最も明確に表れている。まさに動物の世界だ。
「用心棒」には、黒澤の自己風刺に近いのではないかと思えるシーンも時折ある。例えば、銃を持つ登場人物、卯之助は黒澤のニヒリスティックな世界観をよく表しているのではないだろうか。無邪気で好奇心旺盛な卯之助は、向こう見ずな行動をとる。腐敗した世界は、その教訓を彼の体に叩き込む。結果として、彼は自らの墓穴を掘る事になってしまうのだ。「用心棒」は純然たるジャンル映画だが、こうした個人的な視点や主観も強く盛り込まれた作品だ。
そして、実は人間が守るべき道徳についても語っている。もちろん、これまで書いてきたように、主人公は道徳的な人間ではない。「町をきれいにする」という彼の行動の裏に隠れた立派な動機があったりするわけではない。むしろ彼はシニカルで哀愁を漂わせ、道徳心などは明らかに欠けている。ただ、そんな主人公の姿を動物的な世界の中で強烈に見せつけられるからこそ、ここに欠落した道徳心、そして人とはいかに生きるべきかというテーマが観客の心に強く浮かび上がらざるを得ない。そして、それでも三十郎のような存在を必要とする我々の弱さと矛盾にも気づかずにはいられないのだ。
「用心棒」は人間の本質、そして道徳心と倫理的なジレンマを描いた壮大な作品である。
(翻訳終わり)
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