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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「初回視聴率」の問題なのだから、ここで論じていることの中で該当するのは「タイトル」と出演俳優(特に主演俳優)の問題だろう。後は、単に元プロデューサーの分析力自慢に思えるが、初回視聴率と切り離せば、納得できる内容ではある。
特に、横浜流星とやらは、名前からして高年齢層に敬遠されそうな俳優である。ドラマ内容のエグさに関しては、脚本が確か森下圭子(佳子?)だったと思うが、「JIN」で吉原を勉強した、その知識の「廃物利用(転用)」ではないかwww セックスワーク問題はフェミニストの一派にはメインテーマだから、それで女性視聴者を引っ張れるという計算だろう。だが、これも男女を問わず高年齢層には嫌がられると思う。

(以下引用)

まるで「朝ドラ」?元テレ東Pが指摘『べらぼう』が大河ドラマ初回視聴率最低をたたき出した納得の理由
1/12(日) 12:00配信


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FRIDAY
大河ドラマの「朝ドラ」化?
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』NHK公式HPより

初回視聴率最低をたたき出してしまった今年の大河ドラマ『べらぼう』。ドラマを数多く企画・プロデュースし、キャスティングもおこなってきた元テレビ東京のプロデューサーで桜美林大学芸術文化学群教授の田淵俊彦氏によると、そのいちばんの理由は、「朝ドラ」との差別化がなくなってきたことだという。大河ドラマの「朝ドラ」化とは一体どういうことなのか? その訳とは?

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◆低視聴率の原因……

大河ドラマ『べらぼう』が大河ドラマ初回視聴率最低を出してしまった。ネットではいくつか論考記事が出ているが、いまだ核心をついているものは見られない。それはそれらが単に「内容論」に終始しているからである。

そこで今回、私はドラマの内容にも触れながら、いまテレビ業界で起こっている「構造的な変化」に低視聴率の原因を探ってみたい。前職のテレビ局員時代に、私は数多くのドラマをプロデュースしてきた。そのすべてが、他人の企画ではなく自分の企画である。もちろん、スタッフィングやキャスティングも自らおこなってきた。そういった長年の経験から、初回を視聴してまず以下の4つの理由を低視聴率や不評の理由として挙げたい。

◆1_タイトルに魅力がない

『べらぼう』は本来、よい意味には使われない言葉である。「あまりにもひどい状態」を指したり、人をののしる「ばか者」というような語源がある。番組公式サイトで、制作統括の藤並英樹チーフ・プロデューサーは、『べらぼう』というタイトルにした理由を、元の意味から発して〝甚だしい〟〝桁外れな〟という〝普通を超える〟様を表したと述べているが、その意図を知らなければ初見でいい印象は受けないだろう。

私も過去にドラマを制作するときに、最後まで悩むのがタイトルだった。なかには、撮影が終わって編集をする段階になってもまだ悩んでいることもあった。それくらいタイトルはドラマの「顔」になってしまうため、慎重にならざるを得ない。

大河ドラマという長い歴史のなかで、その作品の個性をどう出すかといったハードルに常に挑まなければならない担当者は大変だと思うが、今回はあまりにも奇をてらいすぎたと思われても仕方がないだろう。率直に言って、〝観たくなる〟タイトルではないからだ。

◆2_脚本が視聴者に媚びすぎ

この「脚本が視聴者に媚びすぎ」に関しては、大きく2つの点で気になったことがあった。劇中で語りを担当する綾瀬はるか氏が九郎助稲荷の役で登場するが、このときにスマホを使って距離を説明するシーンがある。

思わず私は「えっ!」と声をあげてしまった。なぜここでスマホを出す必要があるのか。若年層への「媚び」としか映らなかった。

こういった「必要以上のすり寄り」に視聴者は敏感である。「若者には受けるだろう」「おもしろがってくれるだろう」と思いがちなのは作り手側が陥りやすい「落とし穴」だが、視聴者はそこまで単純ではない。

そもそも視聴者は大河ドラマにこういったテイストを求めているのか。もしそう考えたのだとすれば、作り手の「独りよがり」である。

気になったもう1点は物語の「運び」である。途中で何だか民放のサスペンスドラマを観ているような気になってきた。「ドキドキ」「ハラハラ」を重視しすぎて、話の流れに大河ドラマならではの重厚感が感じられなかったのは私だけだろうか。

◆3_子どもに見せられない

これに関しては、「悲惨なシーン」と「女性の裸や男女のシーン」が多いことが指摘できる。

人が殺められるなどのシーンや死体が山積みになった映像、しかも女性が全裸。「そこまでやる必要があったのか」と正直思ってしまった。

ネットでは「思い切った」「よく振り切った」という声も見られる。確かに私も「覚悟してよくぞ表現した」という評価はする。センシティブな性的表現においてはインティマシー・コーディネイターを立てるなど、演者に対しての配慮もされていたと思う。

だが、それらの志や努力も的外れだと効果がない。そもそも、作り手の意思や心意気よりも、「大河ドラマの客がそういった要素を求めているのかどうか」といったことを考えるべきだったのではないだろうか。

私が常々述べているように、映像作品作りには視聴者、社会、作り手の「三方よし」のバランス感覚がなければならない。日曜日の夜8時といえば、家族でテレビを見ている可能性が高い時間帯だ。 私の知人のなかには「子どもと一緒に見ていたが、思わずチャンネルを変えた」と言う人もいた。「吉原」や「遊郭」という設定が、果たしてあの時間帯において適切だったのか。そういった視聴者への配慮もテレビマンには必要ではなかったか。 ◆4_キャストを生かし切れていない ネット記事などで横浜流星氏の演技力を疑問視するものもあるが、なかなか「キャラ立ち」させるのが難しい今回の役を頑張って演じていると私は評価したい。番組終盤に田沼意次を演じる渡辺謙氏と対峙するシーンなどは、なかなかの熱演だった。今後が期待できる。 ただ「べらんめえ調」で粗暴気味の横浜氏は、ファンからすれば決して「見たいキャラ」ではなかった可能性が高い。演者周りで私が指摘したいのは、登場人物が〝すっと〟頭に入ってこなかったということだ。 連ドラは初回ですべての登場人物を印象づけなければ、視聴者は感情移入できない。適材適所でキャストをうまく生かし切れていると、演者名と役名がぴったりとフィットして記憶に残るものだが、今回の大河ドラマはそうではなかった。 その理由は、べらんめえ調の主人公と綾瀬はるか氏演じる九郎助稲荷のキャラが強すぎたせいだと私は分析している。綾瀬氏のキャスティングは完全に「無駄遣い」だ。花魁の格好の綾瀬氏を「ウリ」にしたかったのだろうが、残念ながら魅力的には見えなかった。 ◆しかし、根本的な原因は……大河ドラマの「朝ドラ」化 以上、私のドラマ・プロデューサーとしての経験から、今回の大河ドラマの低視聴率や不評の理由を考察したが、それらの背後に隠されている根本的な原因を見逃してはならない。 それは、「大河ドラマと朝ドラの差別化がなくなってきた」ということだ。 大河ドラマは、歴史上の〝誰もが知る〟人物の〝知られざる〟側面を描く。それに対して朝ドラは、あまり〝人に知られていない市井の〟人物の〝等身大の〟「成長物語」を描く。そういった「すみ分け」があった。 だが、今回の大河ではその「すみ分け」が不明瞭になってしまっている。そのため、視聴者がどう見ていいかわからなくなり、困惑している。 ドラマを観るとき、特に大河ドラマのような没入感が大事なドラマの場合、視聴者はいちいち内容を論理的に分析しながら見ているわけではない。主人公の気持ちに寄り添ったり、時には自分が主人公になり切ったりしながら、理屈抜きに楽しめるのが真骨頂であるからだ。 だから、「なんだかいつもと違うぞ」といった違和感に視聴者は敏感である。「いつもの大河と違う」「求めるものではない」という感覚は、「疎外感」を生み出す。そうなってしまうと、作品から観衆のこころが離れてしまうのだ。 ◆「想定している視聴者」は…… さて、ここからが本論の肝要な部分だ。では、なぜ大河ドラマと朝ドラの差別化がなくなってきたのか。なぜ大河ドラマの「朝ドラ」化が起こっているのか。それは、テレビ業界を取り巻く「環境の変化」にある。そしてそれは、テレビ局の「構造的な変化」を起こしている。 テレビ業界はいま、「配信化」という渦中にいる。これまでのように地上波の放送だけをやっていればいいという時代は終わりを告げた。それだけでは売り上げというマネタイズが立ちゆかない。地上波のドラマはすべて配信に回さなければならない。これまでのようにドラマを地上波で完結させることができていれば、「大河ドラマ⇔朝ドラ」の「すみ分け」が可能だった。 しかし、配信時代に入り、「時間」や「枠」に関係なく視聴者が見られるようになったことで、作り手(NHK)のほうも以前のように「すみ分け」を意識しなくなった。いや、「すみ分け」ができなくなったと言ったほうが正しい。 本論で指摘した〝若年層に媚びるような〟〝刺激的すぎると思われる〟内容などは、本来の大河ドラマでは不要だったかもしれないが、配信に流用するためには必要不可欠な要素である。作り手やNHKは地上波の客を想定しているのではなく、配信の視聴者を想定しているのだ。そう考えると、今回の大河ドラマは配信時代にふさわしい、極めて〝戦略的な〟コンテンツといえるのかもしれない。 最後に、本論を踏まえた提言をしたい。読者の皆さんには、大河ドラマの変化がテレビ業界の環境や構造の変化から来ていることをよく理解してもらえたのではないかと思う。そしてそんな変化のなかで、いかに「その作品の色を出せるか」がいまの配信時代に地上波ドラマが生き残ってゆく方策となる。 それは簡単なことではない。時には失敗もするだろう。だが、現場の作り手たちは歯を食いしばって乗り越えていってほしい。そうエールを送りたい。テレビには蓄積されてきた長い歴史とノウハウがある。その前途には、必ず光明が見えることだろう。 文:田淵俊彦


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