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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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ありえただろうアリエッティについての妄想など。
アリエッティが、マチ針を見つけて、それを剣のようにスカートに挿す所があったが、そのマチ針が話の中で生かされていないのは残念。
まあ、それでネズミと戦うなどというのは、誰でも考える展開で、だからそういうアイデアは捨てたのかもしれないが、やはり映画の基本は活劇であり、戦いというものこそ映画的ドラマの王道ではないかと思うのである。それが、妙な婆さんとの戦いどころか、戦いにもならず逃げ出すというのでは、ドラマも何もあったものじゃない。しかも、それが少年の「好意」の結果であるというわけだから、見終わった後の印象があまりすっきりしない。
無責任な観客の立場からは、やはり、ここは陳腐な展開だろうが何だろうが、小人らしい特性を生かし、工夫に満ちた、ネズミや猫や犬との戦いのエピソードが欲しかった。「グレムリン」でグレムリンの中の一匹が映画の「ランボー」の真似をするが、そういう体の小ささを小道具で補った戦いは、観客を面白がらせたと思う。
もちろん、映画全体のトーンが静謐な印象なのだから、それと不調和になってはいけないのだが、しかし、ドラマ的な盛り上がりが無さ過ぎるのもどうか、ということだ。
しかし、米本(だったか?)監督には、かなりの力量があることは分かったのだから、今後は宮崎駿的キャラクター、ジブリ的描写からある程度離れて、冒険をしてもらいたいと思うのである。
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私は大昔から(と言ってもまさかのらくろ世代ではないが、杉浦茂くらいは知っているくらいの人間だ)野球漫画が好きだったのだが、残念ながら野球漫画で野球そのものの魅力を描いた作品はほとんど無かった。水島慎二(綴りは正しいか?)の「ドカベン」や「野球狂の歌」「あぶさん」なども、野球を題材にしてはいるが、基本は人間ドラマであり、野球の戦略面が描かれることはほとんど無かったのである。その証拠に、これらの作品はほとんど監督不在と言っていいくらいに監督の存在が軽視されている。「野球狂の歌」の五利監督など、ベテラン投手(兼コーチ?)の岩田鉄五郎よりも発言権が低いのである。まして、戦略や戦術など、皆無であった。
野球の面白さは、昔の騎士や武士の頃の戦争の面白さに似ている。つまり、個人的武勇や技量と、全体としての勝利が結びついたり結びつかなかったりするところである。豪傑を揃えれば戦に勝てるとも限らないのだ。そこに戦略や戦術というものが存在するのだが、かつての野球漫画には、戦略・戦術面の面白さは皆無だったと言ってよい。
その野球漫画に革命を起こしたのが、何と女性漫画家の作品である「おおきく振りかぶって」である。(私は固有名詞に弱いので、私のブログの中の人名や作品名は、ほとんどうろ覚えであることを断っておく)この作品は、実際の試合における実質的監督とも言うべき捕手視点から描かれることが多く、ほとんど1球ごとのボールの持つ意味が克明に描かれている。まさしく、マニアによるマニアのための野球漫画である。大昔の「アストロ球団」という馬鹿マンガ(今ではその馬鹿馬鹿しさが評価されてカルト漫画の扱いを受けている面もあるが)は、1試合の描写に1年くらいかかった記憶があるが、「おおきく振りかぶって」も、1試合の経過を追うだけでそれくらいかかりそうである。しかし、野球好きな人間にとっては、これほど面白い漫画も滅多にない。
この漫画の影響かどうか、それに近い野球漫画も最近は増えつつあり、野球漫画は今、黄金期を迎えていると言えるかもしれない。たとえば、「ラストイニング」や「ダイヤのエース」なども、野球の戦略・戦術の面白さがかなりの比重を占めている作品である。一方、これらより知名度の高い「メジャー」などは、古色蒼然と言いたいような古めかしい「少年野球漫画」で、戦略も戦術もあったものではない。もちろん、そうした漫画の方が好きだという層の方が一般的なのである。
何はともあれ、野球の持つ「考えることの喜び」を掘り出してくれた「大きく振りかぶって」には、私は感謝している。その割に、作者の名前も作品名もうろ覚えだが。

夏目房之介氏による「アリエッティ」評。(無断コピーです。)やっぱりプロらしい見方だね。私の雑な印象批評とは違う。


観てきました。
いいんじゃないでしょうか。
原作を読んでませんが、小さな人々の視点からの世界を緻密に構築する手つきはジブリの伝統みたいなものを感じます。人間の目から見た庭や植物や家具の世界と、それを小さい者の視点で絵と運動について繰り返す映像作り。小さなティーポットから落とすお茶の表面張力。ドールハウスの使い方。要するにアニメの面白さの、少なくともひとつに「世界観を変えて緻密に隅々まで創り上げること」があるということに気づいている、という点で、可能性を感じさせる作品でありました。
成功してるかどうかはともかく、祖母の乗る古いベンツを、わざわざ3Dではなくて手描きで描いたのも、多分温かみみたいなものをそこに残したかったのだと思う。停まってるときも、くにくに動いてるのは愛嬌というべきかな。

ただ、どうしてもジブリ作品として観てしまうので、キャラクターの弱さを感じてしまうのも事実。
この作品でキャラがたってるのはお手伝いのハルさんで、樹木希林の声もいい。逆に宮崎アニメがいかにそれぞれのキャラを強く造形しているかに感心してしまう。
それと、この作品は「女の子」のためのものだなと感じる。ドールハウスに感じる夢みたいな感覚の中で作品が立ち上がるところが見所だが、「男の子」が無条件で感情移入できる部分がない。人間側の主人公は心臓手術直前で動けないし、アリエッティは冒険というほど動いていない。父親も何か物分りのいい定点なだけだし、いちばん「男の子」っぽい野性的なスピラーは、せっかくの弓に矢をつがえただけで射ってないし(藤原竜也を声にあててるのに使い方が勿体ない気もする)。まあ、そういう映画だからいいんだけど、もし「男の子」っぽい部分が結末にからんで盛り上がってたら、もっとすごい作品になってたかも。

ともあれ、女性と一緒に行くといい映画ですかね。女性はじゅうぶん満足すると思う。

「借り暮らしのアリエッティ」。なかなか面白かった。盛り上がりは無いが、描写の繊細さは、「ポニョ」の宮崎駿より上じゃないかな。ただ、話の終わり方は、ハッピーエンドではないので、あまり良くない。ジブリ作品の主な観客層は子供であることを考えると、はっきりとしたハッピーエンドで終わるのが作る側の義務だろう。もちろん、アンハッピーエンドではないから、それでいいと言えばそうなのだが、見ていた子供たちも、どういう反応を示せばいいのか戸惑っただろう。
アリエッティは、美人すぎ。原作を知らないから何とも言えないが、もう少し元気でボーイッシュな感じの女の子がよかった。
女中のお春さんは不気味すぎ。なぜあれほど小人を迫害するのか、理解しがたい。小人が泥棒するったって、たいした物は盗んでいないのだから、害虫駆除の会社の人間を呼ぶほどではないだろう。「殺さずに捕まえろ」とは言っていたが、捕まえてどうする気なのかがわからないから、不気味。アリエッティのお母さんを扱う乱暴な態度からすると、善意で捕まえているとはまったく思えない。屋敷の女主人が小人たちに好意を抱いているのは知っているはずだから、お春さんのこの態度はまったく不可解。しかも、小人の側に立つ少年をあらかじめ部屋に閉じ込めた上で小人を捕獲しようというのだから、まったく不気味な婆さんである。
でも、全体的には、丁寧な描写で、良い作品だった。
専門の声優を使わないという方針を相変わらず守っているが、ギャラの高い有名俳優を使ったところで、興行成績が上がるとは思えないし、貧しい声優たちの生活を守るために、専門声優を使ってやるべきだと思うのだが、どうだろう。それとも、専門声優は貧しくはないのかな?

話が格闘技からだいぶ逸れてしまったが、精神のコントロールということも、格闘議論の一部なのである。
精神のコントロールというと、よく「平常心」と言うが、我々の平常の心は、まったくだらけきった散漫なものであり、勝負事には向かない。もちろん、この言葉は、「あがるな、舞い上がるな、力むな」ということを言っているのだが、「平常心」と言葉にすると、その大事な部分が消えてしまうのである。言葉で事柄の代理をさせてはいけないということだ。こういうのが、禅家で言う「野狐禅」、つまり生悟りにつながるのである。我々は言葉だけで思考を停止してしまう傾向がある。それに気をつけなければいけない。
平常心が望ましい状態なら、ではどうすればその「平常心」が得られるかを考えねばならないはずだが、たいていの人間は、「平常心」と心に唱えれば、平常心が得られると思っている。宮本武蔵などはプラグマチストだから、こういう場合は実践的な指針を与えたものである。敵討ちをしたいというある素人に剣術を教えた後、武蔵は、「勝負の場に行く前に、地面を見て、蟻がいるかどうか探してみよ。もしも蟻がいれば、この試合は必ずお前が勝つ」と、占いのようなことを教えた。その男は言われた通りにして蟻を見つけ、決闘にも勝った。後で武蔵が種明かしをして言ったのは、「地面には必ず蟻はいるものだ。しかし、蟻を見つけきれるほど落ち着いていれば、勝負には必ず勝てるということだ」ということだった。心が感情に支配されている状態では、我々は冷静に戦うことはできない。しかも、我々は自分のその状態に気づかないのだ。武蔵のこの処方は、決闘のことでのぼせた頭を、目の前の事実に集中させることで冷静さを取り戻させた、素晴らしい処方だと言える。日常的な生活技術として言うなら、悩み事から逃れるには、別の仕事に集中するのが一番だ、ということである。我々は同時に二つの事に集中することはできない。別の仕事に集中している間に、頭もクールダウンして、悩みは軽減されているものである。勉強や仕事のスランプ克服も同様で、スランプの時は単純作業に集中すればいいのである。
しかし、勝負事で、上がらないでおくことは容易ではない。いや、勝負事に限らず、たとえば大勢の人の前でスピーチをする場合など、上がらないようにするのは難しい。そのいずれの場合でも、上がるというのは恐怖心である。勝負なら、負けることへの恐怖心、スピーチなら、人々から笑われることへの恐怖心。その恐怖心を克服するにはどうすればいいのか。その良薬の一つは、自分は負けるはずがない、失敗するはずがないという自信である。自分のほうか相手より上だという自信があれば、敗北への恐怖は少ないだろう。したがって、力の無い人間が勝負で恐怖心を持つのは当然であり、対策はない、ということになる。それ以前に、力が無いくせに勝負をしようというのが無謀だということだ。恐怖心を克服するもう一つの良薬は、負けても、失敗してもどうということはない、という開き直りである。スピーチなどで失敗して笑われてもいいじゃないか、と思えれば、恐怖心は減らせる。スポーツの勝負でも、負けても命まで取られるわけじゃないのだから、と開き直れば、恐怖心は減らせる。もちろん、命を賭けた本物の格闘、決闘なら話は別だ。テレビなどに出るプロの格闘家など、何度でも負けているではないか。
しかし、恐怖心などは、実は試合が始まるまでの問題であり、いざ試合が始まれば、目の前の事に心は集中するから、恐怖心の問題などは本当は意味が無いのである。チャーチルだかルーズベルトだかが言ったという「我々が恐れるべきものは恐怖そのものである」という言葉は、恐怖は、その実体以上に我々を消耗させるということだろう。つまりは、幽霊の正体が枯れ尾花だろうが、それが我々を怖がらせるという事実はあるのである。だから、恐怖が存在するということは無視できないが、その恐怖は我々自身の心が作り出した幻影的なものであるという事実を忘れないようにするべきである。
 
だいたい、格闘技について言いたいことは書いたと思うので、これくらいで話を終わろう。実のところ、私は格闘技経験者でもなく、格闘技を数多く観戦しているわけでもない。ただ、物事を分析的に考えるのが趣味の一つだから、その対象を格闘技にとって考察してみただけのことだ。経験者から見たらナンセンスな記述が多いだろうということはわかっているが、どのような批判を受けようが、書いている間は私自身が楽しんでいたから、それで十分報われてはいる、ということである。

 あらゆるスポーツ(技能)に共通する上達のポイントがある。それは、「力を抜く」ということである。すぐれたスポーツマンに共通しているのは、力みが無いということだ。力は、必要な時に、必要なだけあればいいということである。体中力みかえった人間ですぐれたスポーツマンはいない。
 ゴルフを例にあげよう。うまいゴルファーは、力一杯にボールを引っぱたいたりはしない。距離が欲しければ、一つ大きめのクラブを使えばいいだけのことだ。つまり、「道具に仕事をさせる」ということだ。力を入れると、逆に、クラブの軌道はゆがみ、ヘッドの角度はずれ、あらゆる欠点が出てくるだろう。
 スポーツに限らず、あらゆる技能で、力を抜くことは上達への道である。たとえば、金ノコで鉄パイプを切るとする。初めての人間は力をこめて鋸を動かし、数分で疲れ果てるが、パイプはほとんど切れていない。一方、慣れた人間は、ほとんど力を入れず、軽く前後に動かしているだけである。しかし、初心者の数倍速く切り終える。金ノコを使ったことのある人間なら知っているが、金ノコはけっこう重い。その重さには意味があるのである。その重さが上から下に加わることと、鋸を前後に引く動作によって、パイプは切れていくのである。力をこめたところで、人間の力など、鉄パイプにはほとんど影響はないのである。ここでは、力を入れることには、疲労を高めるだけの効果しかないのだ。(一番いいのは電動金ノコを使うことであるが、ここでは頭ではなく体を使う話だとしておく。)
力を抜くことが必要なのは、体を使うことだけではない。我々がテレビで見る芸能人は、なぜあのように楽々とふるまえるのだろうか。彼らの姿こそ、まさしく「力が抜けた」姿であり、禅家で言う、「随所に主となる」に近い状態だと私には思われる。どんな二流三流の芸能人でも、彼らには自らのすべてを、裸の姿を人前にさらけ出す覚悟だけはあるということだろう。だからこそ、何一つとどこおることなく反応できるのである。彼らが人間として上等かどうかはさておき、ほとんどの坊主よりはある種の悟達の域に達していると思われる。(よく勘違いされるところだが、ある種の技能の達人だからといって、必ずしも人格的にすぐれているとは限らない。また、その技能以外の知識的な面では、それらの達人は幼稚園児並ということもありうるのである。囲碁や将棋などの名人が政治や経済まで論じるのはおこがましいと言うべきだろう。)
あらゆる技能とは言っても、頭脳労働だけは、「力を抜く」こととは無関係のようだ。そもそも、頭脳労働では、力の入れようもない。しかし、ここで一つ大事なことがある。それはロシアの神秘思想家、グルジェフの考えだが、思考と感情は別々のセンターがあるという考えだ。理性と感情は別という言葉は我々にもおなじみだが、我々はしかし、どちらも結局は同じ脳の働きなんだから同一だとも思っている。それをまったく別のものと考えることは、有益な面がある。それは、自分は今理性を使っているか、それとも感情に支配されているかと省みることで、より冷静な判断が得られるということだ。これを私の次兄は「気を使うな。頭を使え」と簡潔に表現した。この言葉は私の一生の宝になっている。感情に支配された状態が、いわば精神的に「力の入った状態、力んだ状態」である。頭脳労働でも、これは有害な状態だろう。逆に、感情で行動するべき時に、冷静に理性を働かすのも間違いで、恋人(あるいは幼児)との語らいに理性的な発言ばかりしていては相手に嫌われるだけだろう。恋愛などというものは、「あばたもえくぼ」という熱に浮かされた状態なのであり、理性の分野ではない。
 
 格闘技における「読み」について考えてみよう。SF的な話になるが、相手の心が読める人間がいたとすれば、その人間は、格闘技の世界で無敵の存在になる可能性があるのではないだろうか。つまり、相手がどこにどのように攻撃しようと考えた瞬間にはもうそれが読めているのだから、それに対処することは簡単である。もちろん、読んでも逃れようのない状況に追い詰められることもあるだろうが、相手の心が読める人間は、相手よりはるかに有利なことは確かだ。そして、格闘技では、この「読み」もある程度可能なのである。というのは、相手の心は、必ず相手の体のわずかな変化として現われるからである。たとえば、剣道で、相手の小手を打とうと思えば、一瞬そこに視線を走らせるだろう。右に体を移動させようと思えば、そこに障害物が無いか、目の端で見るだろう。そうした相手の微細な変化や、そこに至る過程などから、達人は、相手の次の行動が、かなりの正確さで分かると思われる。これは、幕末の剣豪、白井亨が師事した名人、寺田宗有が、試合において、相手の次の動作をすべて予告してみせたというエピソードから分かる。寺田がどうして「読んだ」かは分かっていないが、相手の体や表情の微細な変化が、彼にはかなり判然とした「情報」を伝えていたと思われる。つまり、普通の剣士よりはるかに高いレベルにある人間は、普通の剣士とは思考レベルそのものが違うのではないだろうか。
 格闘技ではないが、次のような話がある。伝説的名投手、沢村が、日本に来た大リーグ選抜チーム(ヤンキース単独かもしれないが)を7回くらいまで0点に抑えていた。打たれたヒットもほとんどなく、大リーガーたちは、はるかに格下の日本チームに完封負けを喫する屈辱にそわそわし始めたが、その時、ルー・ゲーリッグが沢村からホームランを打ち、結局、1対0で大リーグ選抜が勝った。実は、その時、沢村はカーブを投げる時口をゆがめる癖があることを大リーガーの一人が見破っていたのである。大リーガーの大リーガーたる所以がここにあると私は思う。単に、体が大きく、スピードとパワーがあるから大リーガーなのではない。勝つために、あらゆる情報を貪欲に手に入れ、それを生かして何が何でも勝つという、この勝負根性こそが、もっとも大リーガーらしいところだろう。そして、相手の次の行動を「読む」ということは、勝負事では勝利への近道でもあるのである。
 前に書いた寺田宗有は、彼に弟子入りした白井亨に、「お前は力に頼るからいけない」と言ったそうである。そこで、白井亨は、自分で自分の肩の骨を砕いたというが、スポーツや格闘技で、力は二義的三義的なものでしかないということを、このエピソードは良く表している。もしかしたら、スピードでさえ二義的なものかもしれない。というのは、宮本武蔵は、剣を速く振る必要は無い、と述べているのである。我々が考えると、いかに剣を速く振るかで勝負が決まりそうな気がするのだが、そうではないようなのだ。つまり、いかに神速の剣でも、同じ人間のやることだから、受け、かわすことができないほどの速さは存在しないということなのだろう。それが受け、かわせないのは、実は、体がすくんでしまっているからではないだろうか。まして、相手の次の動作が読めている達人なら、余裕をもって対処できるということだ。こちらは相手が読めており、相手はこちらを読めないとすれば、勝負の優劣は明らかだ。
 


 投げを大別すれば、腕力で投げるもの(レスリングのボディスラムはこれだ)と、相手の動きを利用して投げるものがある。後者の方が腕力も要らずに投げることができる達人の投げである。三船久蔵の「空気投げ」(または隅落とし)などは多分、後者だろう。
 もしも柔道やレスリングが、力やスピードだけに頼るものならば、これは体格に恵まれた、特定の人間のための武道である。しかし、西郷四郎にせよ、三船久蔵にせよ、けっして巨漢ではなかった。つまり、力は柔道の本質的な部分ではないと考えられる。これを表す言葉が、「柔よく剛を制す」という言葉だ。もちろん、体重40キロの人間が体重100キロの巨漢に勝つのは困難だろうが、まったくの不可能でもないかもしれない。というのは、いかに体重が重かろうが、人間が二本の足で立つことの不安定性というものは変わらないからである。そして、ある重さを持った人間が動くと、そこに慣性が働き、足の位置加減によっては、自ら倒れることもありうる。これは、相撲などではおなじみの場面である。小錦や曙、高見山といった巨漢力士が土俵上に横転する場面を我々は何度も見ている。別の面から考えるなら、二本の足で立つ人間は、相手をつかまえることで四本の支点を持ち、安定する。つまり、相手につかまることは、相手に安定な支点を与えることになる。小柄な人間は、けっして相手につかまってはならないということだ。
 相撲などのように、一回でも地面に倒れたら終わりという格闘技と違って、レスリングでは、何度マットに倒れても負けにはならない。だからプロレスでは巨漢レスラーが有利になるのだが、これを武道として考えた場合、一度でも地面に倒れたら終わりという方が、よりシビアな世界だと言えるのではないだろうか。つまり、地面には何が転がっているかわからないのだから、マットという条件を前提としたレスリングは、下が畳であることが絶対条件ではない柔道よりも、より「実戦的ではない」のかもしれない。
 先ほどの体格差の問題にしても、たとえば、四方が断崖絶壁である狭い場所で戦うなら、巨漢であることが必ずしも有利だとは限らないかもしれない。つまり、自らの体重をコントロールする点では、小柄なほうが有利だろうからだ。突進してかわされたら崖から転落という状況では、巨漢の有利さはかなり制限されるだろう。そうした状況とは無縁の、絶対的な接触系(投げ技系)格闘技のポイントは何なのか。
 それは、「重心と支点」だろうと思われる。つまり、相手の重心がどこにあり、それを支える支点が今どうなっているのかを瞬時に読み、相手の動きなどを利用して、相手の重心の位置や支点をできるだけ小さな力で動かして相手を転倒させることが、接触系格闘技の名人・達人の境地ではないだろうか。三船久蔵の「空気投げ」がどんなものかはわからないが、その名称だけでも、この技が相手の力や動きを利用したもので、技を出す方はほとんど力を使っていないということが想像できる。
 体重制になった現在の柔道では、体重の有利さばかりが目立っているが、体重は必ずしも絶対的な有利さではないということを、誰か小兵の柔道家に証明して貰いたいものである。
 ところで、柔道における基本の立ち方に、「自然体」と「自護体」がある。自然体は、背筋を伸ばしてリラックスして立った状態であり、自護体は、相手に投げられまいと、腰を後ろに引いて頭をかがめ、背が丸くなった姿勢である。後者は、重心を低くして、体を安定させようとした姿勢に見えるから、こちらが合理的にも思えるが、実は柔道では自然体が良い姿勢なのである。それはなぜか。第一に、精神的な問題がある。自然体は、相手がどのように出てこようとも、それに対応しようというリラックスした姿勢であると同時に、隙があればこちらから即座に攻撃に出ようという積極的な姿勢である。それに対して、自護体は、最初から投げられることを想定して、それを何とか防ごうという消極的な姿勢であり、こちらから技を掛けることは考えてもいない。これでは勝負に勝てるはずもない。
 次に、安定性という面から見ても、実は自護体はけっして安定した姿勢ではないのである。それは重心の位置を考えればいい。体を前に倒した状態では、重心は自分の両足の外に出ており、相手と四つに組んでいることでかろうじて倒れずにいるだけである。相手が、その組み手をはずすか下に引くだけで倒れるはずなのだ。
 倒れたら終わりという点では、相撲こそが「倒れることの科学」を徹底的に研究していそうなものだが、寡聞にして、相撲の科学的戦略というものは聞いたことがない。もちろん、あらゆるスポーツや武道は、頭で考えることとは別だろうが、しかし、本物の達人や名人は、盲目的な訓練の中から偶然に秘訣を発見したのではなく、それが言語化されるかどうかは別として、頭で考えて秘奥をつかんだのだと私は思っている。しかし、多くのスポーツや武道では、伝統的な訓練をひたすら強制するだけで、その訓練が合理的かどうかを問うことはしない。
 体型の問題をもう少し考えよう。太った人間はやせた人間より倒れやすいかというと、別にそんなことはない。倒れやすさ自体は体重とは関係がないのである。ただし、体型は関係がある。下半身が貧弱で、上半身が太っている人間はやはり倒れやすいだろう。しかし、老人に転倒する者が多いのは、体重とも体型とも関係がない。これは、思っているほどに足が動かないというところに主な原因がある。想像と肉体のギャップが老人の事故の主な原因だろう。若い人間でも、疲労がたまっている時などに階段をのぼろうとして、思ったほど足が上がらず、足を引っ掛けて倒れそうになることがある。老人はそれがよりひどくなるわけである。
 倒れても、ダメージを受けないようにすることも、接触系(投げ技系)格闘技の重要な技術である。柔道の受身などがそれだ。これは、地面にぶつかってもダメージにならない体の部位で地面に接触すること、体を回転させながら転倒することで、ダメージを減らすことなどが基本である。つまり、体と地面が接触する時のベクトルを変えるということだ。
 

Ⅱ 投げ技系の格闘技
 
 ここで投げ技系と言うのは、パンチや蹴りとは違って、相手を掴むという行為を主とする格闘技の事である。具体的には、柔道、サンボ、合気道、レスリングなどがそれに当る。掴んだ後は、「投げる」「押さえ込む」「関節の逆を取る」「締める」などが主な行為になる。相撲などは張り手や突っ張り、ぶちかましなどの「打撃」もあるが、これも相手の廻しを取って投げる(引き倒す)のが基本である。
 これらの中でもっとも実用的なのはレスリングだろう。柔道は、相手が道着を着ないとほとんど勝負にならない。合気道は、相手の腕や指などを捕まえないと技が出せない。とっさに相手の関節の逆を取る腕前を作り上げるには、相当の修練が必要だろう。
 投げの多彩さや威力という点では、柔道はレスリングより上かもしれないが、道着を着た相手でないと技をかけられないというのは、致命的である。もちろん、相手が素人なら、道着を着ていなくても投げられるだろうが、同じ力量の者が戦う場合、柔道はレスリングより不利だろう。アメリカに柔道を広めに行った初期の講道館四天王の一人が、レスリングをやっていた米軍将校との試合に敗北したのは、その一例である。
 ここでは、柔道、レスリングを問わず、投げ技系の格闘技に於ける、様々な技の原理原則を考察してみる。ただし、柔道やレスリングの技には詳しくないので、勘違いがあるかもしれないことをあらかじめ断っておく。
 まず、投げるとはどういうことかというと、格闘技的に解釈すれば、相手を地面に叩きつけることでダメージを与えることである。これを別の見方をすれば、相手を地面と激突させ、落下速度と相手自身の体重でダメージを与えることである。つまり、自分は媒介者であり、実際に衝突するのは相手と地面なのである。ここから、理想の投げ技は、自分自身の力をまったく用いず、相手自身の動きと相手の体重を利用して投げるものだという結論がでてくるが、それは後で考察する。しかし、スポーツ化した柔道では、しばしば、投げの目的が相手にダメージを与えることであることが忘却されてしまう。もちろん、スポーツの世界では、相手を死に至らしめるような投げ方、たとえば、頭から地面に落下させるというようなことはあるべきではないが、柔道以前の柔術の世界では、相手を死に至らしめることは、むしろ本来の目的にかなっていたはずだ。柔術の起源は、武者の組打ちであり、武器が使用できない状況で、いかにして相手を殺すかがその目的だったはずである。
 相手にダメージを与えるためには、相手をできるだけ空中の高い位置から、できるだけ速いスピードで落下させ、しかも相手の急所を地面に激突させる姿勢で叩きつけるのがいいということになる。その手段が、自分の体の一部に相手の体を乗せて落とすことである。基本的には、足払いよりは腰投げ、腰投げよりは背負い投げのほうが、ダメージは大きいはずだ。しかし、単に相手を転ばせるだけの足払いでも、地面と体の激突は相当のダメージになる。人間の自重というものは、それ自体、大きなダメージ要素なのである。
 人間が二本の足で立ち、移動できるというのは、ある意味では奇跡的なこと、言葉を変えれば異常な事態である。こころみに、立った姿勢でじっと長い間目を閉じてみるがいい。自分がまともに立っているかどうか、不安に襲われるはずである。そして、そのうち体がふらついてきて倒れる人もいるはずだ。つまり、我々は、視覚で無意識の微調整をすることで、立ったり歩いたりしているのである。もちろん、盲目の人は、その状態に慣れているから、話は別だ。少なくとも、普通の人間は、目をつぶった状態では真っ直ぐ歩くこともできないのである。
歩くとは、片足に体重を乗せて前傾し(つまり、前に倒れ)ては、もう一方の足で支え、次は、体重をその足に移して同じ動作をするという、「倒れる」動作を連続していることなのである。体の転倒は、実は非常に起こりやすいことであり、二本の足だけで立った状態、歩く状態は、簡単に倒れる状態なのだということを確認しておこう。
 倒れないためにどうすればいいかを考えれば、相手を倒すためにどうすればいいかの答えも出てくる。その答えは簡単である。体の重心が両足の間にあるとき、我々の体は安定し、倒れにくい。また、重心が低い位置にあるほど倒れにくい。重心が両足の間から外に出たら、体は簡単に倒れる。つまり、柔道など、「投げ」をメインとする格闘技では、「崩し」によって相手の重心を相手の両足の外に出すことが投げにつながるのである。
 もう一つは、両足で立っている相手を片足にすること。片足だけで立って倒れずにいることは難しい。足払いや大内刈りなどの技がこれに当る。それと同時に相手の袖や襟などを掴んで相手の重心を傾け(支点の外に出し)たら、確実に倒れるわけである。
 相手の両足を地面から強引に離した後で、地面に叩きつけるということもある。大外刈り、腰投げ、背負い投げなどはこのタイプである。レスリングなら、相手の体全体を担ぎ上げて、マットに叩きつける、ボディスラムもある。相手の突進力を利用して、相手の内懐に入り、相手を担いで投げ落とすのが、姿三四郎のモデル、西郷四郎の「山嵐」だったと想像されるが、実は、これは西郷四郎がかなりの小兵だったから可能な技だったのだろう。

 フットワークについて考えてみよう。
 宮本武蔵は、「五輪の書」の中で、剣で戦う時の足運びを、普通に歩くようにやればいいと書いている。つまり、飛んだり跳ねたりしなくていいということだ。飛んだり跳ねたりするということは、その飛んだり跳ねたりする動作に意識が捉われるだけでなく、人間の動作は空中で変えられるものではないから、空中姿勢というのは隙だらけだということになるということだろう。ボクシングのフットワークも基本は同じだろう。つまり、すり足に近いような感じで移動するのが基本ではないか。体重の乗ったパンチを打つには、足が地面(マット)から離れていてはいけない。どの瞬間にも両足がマットについているのが、すり足である。しかし、完全なすり足では体の移動が困難だから、軽く踵を浮かす程度で足を運ぶ。そして、必要な瞬間には、後方の足で力強く地面(マット)を蹴りながら、体重を乗せてパンチを打つのである。
 体を移動させるのは、相手の攻撃を避け、こちらのパンチを入れる隙を見出すためである。移動によってこちらに隙ができるのでは意味がない。下手なボクサー同士の戦いでは、お互いにパンチを出すタイミングがつかめず、空振りだけが連続するものだ。当っても、腕や肩に当るだけで、有効打にはならない。いくらフットワークだけが良くても、それがパンチを出すことに結びつかなければ意味は無い。
 フットワークと言うと大げさだが、基本的には前進と後退と、右に回ることと、左に回ることしかない。その中間もあるだろうが、細分するほどのものではない。前進は攻撃、後退は防御、左右への移動は相手の隙を見出す動きで、攻撃と防御、どちらにも使う。もちろん、場合によっては後退しながらの攻撃や、前進しながらの防御もあるだろうが、それは機に応じての行動である。原則として、相手が右利きなら、相手の右(つまり、相手が右パンチを出す、その外側から相手の背後方向)に動き、左利きならその逆に動くべきだろう。相手が右ストレートを出した時に、その外側に体をかわしつつ、相手のやや右から左ストレートで相手の顎かテンプルを狙うのがクロスカウンターである。相手が攻撃した瞬間が、こちらにとっても最大のKOチャンスである、というのを如実に示したのが、「あしたのジョー」のクロスカウンターのシーンであった。
 フットワークは大切なものだが、絶対的に大切かと言うと、即答はできない。つまり、いつかは接近し、接触しない限り勝負は決着しないのだから、こちらは動かず、相手の接近を待てばいいという考えも可能である。そうなると、フットワークを使う人間は動き損のくたびれ損ということになりかねない。こうした戦法に対して、プロはどう考えるのか聞いてみたいところである。
 ブルース・リーが革命的だったのは、空手もしくは拳法の世界にリズミカルなフットワークを取り入れたところであった。彼のファイトスタイルは、その後のアニメ世界のファイトスタイルの基本となっている。その場で小刻みに、リズミカルに軽く跳ねながら機を伺い、パンチや蹴りを出す、あのスタイルは、実は(これはフィクションではあるが)眠狂四郎の円月殺法と同様の、催眠効果がある。相手は知らぬうちに彼のリズムに心を合わせているのである。ということは、相手の動きは常にブルース・リーの後追いをすることになる。彼のパンチや蹴りが相手に当るのは当然だったわけだ。ブルース・リーの映画が世界中の人の心を捉えたのは、「これは本物だ」と誰もが思ったからであった。
 
さて、以上でボクシングについての考察を終わる。なぜここまで長々と書いてきたかというと、私にはボクシングという「遊び」が不思議に思えるからだ。なぜあるパンチは当り、あるパンチは当らないのか、というのが私には不思議だ。だから、考察してみたのである。また、生まれ持った才能だけではなく、修練によって、ボクシングの技能を身に付け、強豪となる、その技能における原則は何なのか。その分析そのものが私には面白いのである。
 ここでの考察はもっぱら物理的、身体的な部分の考察で、心理面の考察はわずかだったが、これだけでもボクシングと他の格闘技の違いはだいぶ明らかになったかと思う。 
ボクシングを野蛮なスポーツとして毛嫌いする人間は(特に女性に)多い。ボクシング、いや、あらゆる格闘技が野蛮であることには私も異論が無い。しかし、法律的に人を騙して財産を奪い、相手を死に追いやることは、はたして相手を拳で殴り殺すことよりも文明的なことなのかどうか。人間世界も弱肉強食のジャングルに過ぎないとすれば、ボクシングのような「野蛮な」スポーツを見て楽しむこともけっして人間性に悖るものではないだろう。むしろ、文明世界の仮面をはがしたところにある原始の姿を、ボクサーは、命がけで我々に見せてくれるのであり、自らの命を賭けて殴りあうその姿に私は、通常の人間のレベルを超えた、何か崇高なもの(崇高が大げさなら、男や雄の神話的原型とでも言おうか)さえ感じるのである。
 
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