まず、落合は、チームを引き受けた時、現有勢力だけで戦うと言った。これは与えられた材料をよく吟味もせずに大金をはたいて補強に走る、これまでの監督たちへの批判であり、無名選手として入団し、その才能を開花させることなく終わる可能性のあった野球選手としての、選手から監督たちへの批判である。つまり、「お前たちは選手の能力や努力をちゃんと見ているか」という批判だ。さらに言えば、プロに入るほどの選手ならば、皆、一軍で働ける可能性はあるはずだ、という考えだろう。
落合は、一軍選手も二軍選手も同じスタートラインから始めると言った。つまり、秋季練習や春季練習の中から頭角を現した人間だけを使うと言ったのである。
スタートラインの平等。これは民主主義の理想でありながら、現実にはどこにも存在していないものである。落合は、それを実行したのである。だから、その競争に敗れた人間たちから不満の声は出なかった。もしも不満を言えば、それは自分の敗北を、よりみじめにするだけだっただろう。
こうして、落合監督は、まず「平等な競争」というスタートラインを作ったのである。これがその後のペナントレースの中で、これまでならしばしば出ていた内部からの不満を生じさせにくくする土台となったのだ。
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「ガチョ~ン」
とつぶやいた。おまけに胸のあたりで小さく手まで動かして。なんでも彼女のお父さんが昔からよくやっていてそれがうつってしまったらしい。
同僚女性社員は皆
「なにそれ」
「ふるすぎー」
「ウエキ?ウエキ?」
などとピントのはずれたことを口々に言っていたが、男性社員は全員一斉に目を輝かせたのは言うまでもない。
その後彼女は同じビル内の別の企業のオフィスの結構なイケメンと結婚-->寿退社となった。女性社員は一様に「なんで?なんであんな地味な子が??」といぶかったが、男性社員は「あのイケメン、ただのやさ男かと思ったら見る目は確かなようだ」とささやきあった。
噂では結婚後出産を経ても彼女の体系は崩れず、地味だった容貌も年齢を重ねるごとに美しさを増し、同期の女性の間で「ミラクル」と呼ばれているという。
ガチョ~ンの効用をあなどってはならないという事例である。
(・∀・)マジデ実話
中日の落合監督は、現役時代から「俺流野球」、つまり野球界の常識などまったく無視した練習方法と打撃術で知られた人間だが、監督になってもやはり「俺流野球」を貫いている。その基本となる考えは、実はまったくの合理主義である。他の監督よりも野球における計算が合理的なために、高い勝率を残してきたのである。
その野球のスタイルは、彼の選手時代と何も変わってはいないのだ。
彼の言葉の中で印象的な言葉がある。「狙い球と違う球が来たら、『御免なさい』と三振してくればいい」という意味の言葉だ。これは、年間のトータルで数字を残せばいい、という考えであり、優勝のかかる大事な打席で必ずヒットを打たねばならないという強豪チームの4番打者の言葉ではない。不人気リーグのパリーグの、その中の弱小球団の4番打者としては、自分の数字さえ残せばそれでよかったのである。
現役時代の落合が、その圧倒的な記録にもかかわらず、あまり人気がなかったのは、そういう「自分の記録とその報酬」にしか興味のない姿勢が嫌われていたのだと思う。私は、それはそれでプロの一つの在り方だと思って、評価していたのだが。
監督となってからの彼のやり方も独特なものだった。彼は、まず「高い金を払って外国人選手を呼ぶ必要はない。他チームの主力選手をトレードで手に入れる必要もない。現有戦力だけで十分だ」と言ったのである。これは、阪神の監督に就任した時に、チームの主力選手を総入れ替えした星野監督とまったく正反対のやりかたである。落合は、成績が低迷しているチームの人員をまったく変えずに、優勝争いのできるチームに変えることができる、と言ったわけである。
そして彼はそれを実現した。その後中日ドラゴンズは、毎年のように優勝争いをしている。12球団の4番打者を金でかき集めた巨人を倒して優勝したこともある。
では、彼の監督術とは何か。それは次回のテーマとしよう。
ともあれ、真栄平選手は、その才能が開花しつつあるようである。真っ向勝負のアメリカ人相手の方が、彼には向いているのではないか。そのまま、あちらに残って大リーグ入りでも目指したらどうだろうか。何なら、ステロイドでも使って肉体改造をするという手もあるし。(これは冗談だが、最近の大リーグの記録の大半は、ステロイドによる肉体改造をした選手たちによる記録である。バリー・ボンズの年間73本という、あきれたホームラン記録がその代表だ。マクグワイア、サミー・ソーサなど、すべてそうである。投手でいえば、ロジャー・クレメンスなどがそうらしい。)
アンファニズムとは、フランス語の「子供=アンファン」に「主義=イズム」をくっつけた私の造語である。つまり、「子供主義」だ。子供主義とは何かというと、大人の正体は子供である、ということ、あるいは大人か子供かは年齢とは無関係だ、ということである。子供の中にも大人はいるし、大人の中にも子供はいる。それを肯定的にとらえて、もっと自由に気楽に生きよう、と世の中の「大人」たちに呼びかけるのがアンファニズムである。
昔、私がまだ二十代はじめの頃に、友人の知人の家に遊びに行ったことがある。その男の人は多分40代くらいだったと思うが、その人の部屋にはモデルガンがたくさん、壁に掛けられていた。それを見て、私は、「この人は偉い!」と思った。当時の私は大人と子供ははっきりと違うし、いつまでも子供っぽい嗜好を持っているのは恥ずかしいことだという既成概念に囚われていたのである。この男の人のように、自分の子供っぽい嗜好を堂々と他人の前に見せているのは立派だ、と私は考えたわけだ。
この時の経験が私の「アンファニズム」の土台にある。
社会的な関わりの中では、人間は大人的な体面を守り、大人として行動することを要求される。それは当然である。しかし、趣味・嗜好の世界では、これはダメとか、これは恥ずかしいという既成概念に囚われる必要などまったく無い。これが私の言うアンファニズムだ。別の面から見れば、大人というパラダイムを捨てることで、精神を自由にしよう、ということでもあるが、まあ、理屈はどうであれ精神(内面生活)の中でまで自分が大人であることに縛られる必要などない、ということである。
アリエッティが、マチ針を見つけて、それを剣のようにスカートに挿す所があったが、そのマチ針が話の中で生かされていないのは残念。
まあ、それでネズミと戦うなどというのは、誰でも考える展開で、だからそういうアイデアは捨てたのかもしれないが、やはり映画の基本は活劇であり、戦いというものこそ映画的ドラマの王道ではないかと思うのである。それが、妙な婆さんとの戦いどころか、戦いにもならず逃げ出すというのでは、ドラマも何もあったものじゃない。しかも、それが少年の「好意」の結果であるというわけだから、見終わった後の印象があまりすっきりしない。
無責任な観客の立場からは、やはり、ここは陳腐な展開だろうが何だろうが、小人らしい特性を生かし、工夫に満ちた、ネズミや猫や犬との戦いのエピソードが欲しかった。「グレムリン」でグレムリンの中の一匹が映画の「ランボー」の真似をするが、そういう体の小ささを小道具で補った戦いは、観客を面白がらせたと思う。
もちろん、映画全体のトーンが静謐な印象なのだから、それと不調和になってはいけないのだが、しかし、ドラマ的な盛り上がりが無さ過ぎるのもどうか、ということだ。
しかし、米本(だったか?)監督には、かなりの力量があることは分かったのだから、今後は宮崎駿的キャラクター、ジブリ的描写からある程度離れて、冒険をしてもらいたいと思うのである。
野球の面白さは、昔の騎士や武士の頃の戦争の面白さに似ている。つまり、個人的武勇や技量と、全体としての勝利が結びついたり結びつかなかったりするところである。豪傑を揃えれば戦に勝てるとも限らないのだ。そこに戦略や戦術というものが存在するのだが、かつての野球漫画には、戦略・戦術面の面白さは皆無だったと言ってよい。
その野球漫画に革命を起こしたのが、何と女性漫画家の作品である「おおきく振りかぶって」である。(私は固有名詞に弱いので、私のブログの中の人名や作品名は、ほとんどうろ覚えであることを断っておく)この作品は、実際の試合における実質的監督とも言うべき捕手視点から描かれることが多く、ほとんど1球ごとのボールの持つ意味が克明に描かれている。まさしく、マニアによるマニアのための野球漫画である。大昔の「アストロ球団」という馬鹿マンガ(今ではその馬鹿馬鹿しさが評価されてカルト漫画の扱いを受けている面もあるが)は、1試合の描写に1年くらいかかった記憶があるが、「おおきく振りかぶって」も、1試合の経過を追うだけでそれくらいかかりそうである。しかし、野球好きな人間にとっては、これほど面白い漫画も滅多にない。
この漫画の影響かどうか、それに近い野球漫画も最近は増えつつあり、野球漫画は今、黄金期を迎えていると言えるかもしれない。たとえば、「ラストイニング」や「ダイヤのエース」なども、野球の戦略・戦術の面白さがかなりの比重を占めている作品である。一方、これらより知名度の高い「メジャー」などは、古色蒼然と言いたいような古めかしい「少年野球漫画」で、戦略も戦術もあったものではない。もちろん、そうした漫画の方が好きだという層の方が一般的なのである。
何はともあれ、野球の持つ「考えることの喜び」を掘り出してくれた「大きく振りかぶって」には、私は感謝している。その割に、作者の名前も作品名もうろ覚えだが。
『借りぐらしのアリエッティ』
2010/08/23観てきました。
いいんじゃないでしょうか。
原作を読んでませんが、小さな人々の視点からの世界を緻密に構築する手つきはジブリの伝統みたいなものを感じます。人間の目から見た庭や植物や家具の世界と、それを小さい者の視点で絵と運動について繰り返す映像作り。小さなティーポットから落とすお茶の表面張力。ドールハウスの使い方。要するにアニメの面白さの、少なくともひとつに「世界観を変えて緻密に隅々まで創り上げること」があるということに気づいている、という点で、可能性を感じさせる作品でありました。
成功してるかどうかはともかく、祖母の乗る古いベンツを、わざわざ3Dではなくて手描きで描いたのも、多分温かみみたいなものをそこに残したかったのだと思う。停まってるときも、くにくに動いてるのは愛嬌というべきかな。
ただ、どうしてもジブリ作品として観てしまうので、キャラクターの弱さを感じてしまうのも事実。
この作品でキャラがたってるのはお手伝いのハルさんで、樹木希林の声もいい。逆に宮崎アニメがいかにそれぞれのキャラを強く造形しているかに感心してしまう。
それと、この作品は「女の子」のためのものだなと感じる。ドールハウスに感じる夢みたいな感覚の中で作品が立ち上がるところが見所だが、「男の子」が無条件で感情移入できる部分がない。人間側の主人公は心臓手術直前で動けないし、アリエッティは冒険というほど動いていない。父親も何か物分りのいい定点なだけだし、いちばん「男の子」っぽい野性的なスピラーは、せっかくの弓に矢をつがえただけで射ってないし(藤原竜也を声にあててるのに使い方が勿体ない気もする)。まあ、そういう映画だからいいんだけど、もし「男の子」っぽい部分が結末にからんで盛り上がってたら、もっとすごい作品になってたかも。
ともあれ、女性と一緒に行くといい映画ですかね。女性はじゅうぶん満足すると思う。