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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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落合野球とは何か。それは、合理主義である、と前回に書いたが、それをもう少し具体的に考えてみよう。合理主義とは、計算である。与えられた材料から、妥当な結果を予測して行動するのが合理主義である。ところが、現実人生では虚飾や虚偽や願望などのために正しい計算や予測ができなくなる人間が多い。そのために、落合のような冷徹な合理主義者が成功し、それが目立つのである。
まず、落合は、チームを引き受けた時、現有勢力だけで戦うと言った。これは与えられた材料をよく吟味もせずに大金をはたいて補強に走る、これまでの監督たちへの批判であり、無名選手として入団し、その才能を開花させることなく終わる可能性のあった野球選手としての、選手から監督たちへの批判である。つまり、「お前たちは選手の能力や努力をちゃんと見ているか」という批判だ。さらに言えば、プロに入るほどの選手ならば、皆、一軍で働ける可能性はあるはずだ、という考えだろう。
落合は、一軍選手も二軍選手も同じスタートラインから始めると言った。つまり、秋季練習や春季練習の中から頭角を現した人間だけを使うと言ったのである。
スタートラインの平等。これは民主主義の理想でありながら、現実にはどこにも存在していないものである。落合は、それを実行したのである。だから、その競争に敗れた人間たちから不満の声は出なかった。もしも不満を言えば、それは自分の敗北を、よりみじめにするだけだっただろう。
こうして、落合監督は、まず「平等な競争」というスタートラインを作ったのである。これがその後のペナントレースの中で、これまでならしばしば出ていた内部からの不満を生じさせにくくする土台となったのだ。
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谷啓追悼記事。なんとなく面白いので転載する。記事元はボーガスニュースのコメント欄。


・ bogusnews大好きっ娘 さん
その昔勤め先で普段から真面目で仕事のミスなんかしなさそうな物静か(ぶっちゃけ地味)な女の子がありえないミスをした。その時彼女は小さな声で

「ガチョ~ン」

とつぶやいた。おまけに胸のあたりで小さく手まで動かして。なんでも彼女のお父さんが昔からよくやっていてそれがうつってしまったらしい。

同僚女性社員は皆
「なにそれ」
「ふるすぎー」
「ウエキ?ウエキ?」

などとピントのはずれたことを口々に言っていたが、男性社員は全員一斉に目を輝かせたのは言うまでもない。

その後彼女は同じビル内の別の企業のオフィスの結構なイケメンと結婚-->寿退社となった。女性社員は一様に「なんで?なんであんな地味な子が??」といぶかったが、男性社員は「あのイケメン、ただのやさ男かと思ったら見る目は確かなようだ」とささやきあった。

噂では結婚後出産を経ても彼女の体系は崩れず、地味だった容貌も年齢を重ねるごとに美しさを増し、同期の女性の間で「ミラクル」と呼ばれているという。

ガチョ~ンの効用をあなどってはならないという事例である。

(・∀・)マジデ実話
[1][5][10]このコメントに拍手する (2010/09/12 21:46)
落合野球の考察 1

中日の落合監督は、現役時代から「俺流野球」、つまり野球界の常識などまったく無視した練習方法と打撃術で知られた人間だが、監督になってもやはり「俺流野球」を貫いている。その基本となる考えは、実はまったくの合理主義である。他の監督よりも野球における計算が合理的なために、高い勝率を残してきたのである。
その野球のスタイルは、彼の選手時代と何も変わってはいないのだ。

彼の言葉の中で印象的な言葉がある。「狙い球と違う球が来たら、『御免なさい』と三振してくればいい」という意味の言葉だ。これは、年間のトータルで数字を残せばいい、という考えであり、優勝のかかる大事な打席で必ずヒットを打たねばならないという強豪チームの4番打者の言葉ではない。不人気リーグのパリーグの、その中の弱小球団の4番打者としては、自分の数字さえ残せばそれでよかったのである。
現役時代の落合が、その圧倒的な記録にもかかわらず、あまり人気がなかったのは、そういう「自分の記録とその報酬」にしか興味のない姿勢が嫌われていたのだと思う。私は、それはそれでプロの一つの在り方だと思って、評価していたのだが。
監督となってからの彼のやり方も独特なものだった。彼は、まず「高い金を払って外国人選手を呼ぶ必要はない。他チームの主力選手をトレードで手に入れる必要もない。現有戦力だけで十分だ」と言ったのである。これは、阪神の監督に就任した時に、チームの主力選手を総入れ替えした星野監督とまったく正反対のやりかたである。落合は、成績が低迷しているチームの人員をまったく変えずに、優勝争いのできるチームに変えることができる、と言ったわけである。
そして彼はそれを実現した。その後中日ドラゴンズは、毎年のように優勝争いをしている。12球団の4番打者を金でかき集めた巨人を倒して優勝したこともある。
では、彼の監督術とは何か。それは次回のテーマとしよう。
# 248 ゲームの自由度
 
 テレビゲームの中で私が特に好んでやるのがロールプレイングゲームの「剣と魔法」物だということは前に書いたが、そうしたゲームの特徴は「旅と戦いと報酬」である。つまり、ゲーム世界を旅しながら敵や怪物と戦い、戦いに勝って報酬を得る、というのが基本だ。その中でもストーリー性が強いものと弱いものがあり、私が好むのはストーリー性は弱く、そのゲームの中をただふらふらとさまよっているのが楽しいというゲームだ。そうしたゲームは一般的には「自由度が高い」という。ドラゴンクエストなどは比較的自由度は高い方だが、それでもストーリーはわりと明確である。ファイナルファンタジーあたりになると、私から見れば、向こうが勝手に決めたストーリーラインに沿って、ただゲーム機を操作しているだけのような気がして、あまり好みではない。つまり、非常に自由度が低いのである。そうした日本の作品に大きな影響を与えた本場のRPGが「ウルティマ」であるが、その「ウルティマ」ほど自由度の高いゲームも滅多にないだろう。私は「Ⅵ」しかやっていないし、しかもそれを10年近くやってまだクリアしてもいない。それどころか、このゲーム世界のどこに何があるのか、まださっぱりわからないのである。攻略本でも見れば分かるかもしれないが、このゲームは別に攻略するためのゲームではない。私はただその中を旅するのが楽しいし、ふとした機会に何かの発見をするのが楽しいのである。スーファミだからデータセーブも1つで、同じデータで延々とやるか、白紙に戻してやるしかないという厳しさだが、それもいいだろう。それこそ、人生と同じく一回性のものではないか。こんな名作が、日本ではほとんどやる人がいないというのは寂しいことである。
 
 
 
最近、高橋留美子の「めぞん一刻」を全巻読み直したのだが、大昔に週刊誌で読んでいた時には気づかなかったことが多い。主人公の五代のダメ人間ぶりは、同様に全巻を見直ししたアニメで、よく分かっていたが、ヒロインの響子さん(管理人さん)が、案外と人間的な弱点の多い人間であることは、雑誌掲載当時は、まるで気づかなかった。おそらく、それは五代と自分を同化して見ていたからだろう。惚れてしまえばあばたもえくぼというわけだ。しかし、もう一つの発見は、すぐれたキャラクターにおける欠点は欠点ではない、ということだ。音無響子が完全無欠な人間だったら、これほどの魅力は持ち得なかったはずである。察しの悪さ、視野の狭さ、決断力の無さ、短気さ、嫉妬心の強さなどがあるからこその響子さんなのである。それらの些細な欠点は、彼女の純粋さ(実は、その純粋さも、結婚を前にすると幾らかの計算がどうしても入ってくるところに、作者の冷徹な視線があるが)、愛情の深さ、優しさ、まっすぐな正義感など、さまざまな長所の前では、むしろ香辛料になるわけである。
ついでながら、「めぞん一刻」に出てくる中で一番の大人はアケミさんだと私は思っている。なかなか深みのある人間で、最後のあたりで、「あんたみたいな面倒くさい女から男を奪うほど、あたしは暇じゃないよ」とか何とか、子供っぽい強情を張る響子さんに毒づくセリフは最高だった。もちろん、毎回下着姿で登場するというサービスぶりも素晴らしいのだが。
高橋留美子氏には、ぜひ、もう一度、このような大人向けのロマンチック・コメディを描いてほしいものである。
高校野球選抜チームが、今、アメリカでアメリカチームと試合を行っているが、昨日の試合で興南高校の4番打者の真栄平一塁手がホームランを2本打った。ところが、テレビでは先発の一二三投手が好投した、というニュースばかりである。普通、4回1失点の投手と、ホームラン2本の選手では、後者がニュースだろう。確かに一二三もなかなかの好投ではあるが、あちらの広い球場で2本もホームランを打った選手とは比較にならない。マスコミが勝手にスターを作り、そのスター選手中心にニュース作りをしていくという姿勢は昔からあるが、こういうことばかりやっているから、マスコミは視聴者に見放されるのである。
ともあれ、真栄平選手は、その才能が開花しつつあるようである。真っ向勝負のアメリカ人相手の方が、彼には向いているのではないか。そのまま、あちらに残って大リーグ入りでも目指したらどうだろうか。何なら、ステロイドでも使って肉体改造をするという手もあるし。(これは冗談だが、最近の大リーグの記録の大半は、ステロイドによる肉体改造をした選手たちによる記録である。バリー・ボンズの年間73本という、あきれたホームラン記録がその代表だ。マクグワイア、サミー・ソーサなど、すべてそうである。投手でいえば、ロジャー・クレメンスなどがそうらしい。)

アンファニズムとは、フランス語の「子供=アンファン」に「主義=イズム」をくっつけた私の造語である。つまり、「子供主義」だ。子供主義とは何かというと、大人の正体は子供である、ということ、あるいは大人か子供かは年齢とは無関係だ、ということである。子供の中にも大人はいるし、大人の中にも子供はいる。それを肯定的にとらえて、もっと自由に気楽に生きよう、と世の中の「大人」たちに呼びかけるのがアンファニズムである。


昔、私がまだ二十代はじめの頃に、友人の知人の家に遊びに行ったことがある。その男の人は多分40代くらいだったと思うが、その人の部屋にはモデルガンがたくさん、壁に掛けられていた。それを見て、私は、「この人は偉い!」と思った。当時の私は大人と子供ははっきりと違うし、いつまでも子供っぽい嗜好を持っているのは恥ずかしいことだという既成概念に囚われていたのである。この男の人のように、自分の子供っぽい嗜好を堂々と他人の前に見せているのは立派だ、と私は考えたわけだ。
この時の経験が私の「アンファニズム」の土台にある。

社会的な関わりの中では、人間は大人的な体面を守り、大人として行動することを要求される。それは当然である。しかし、趣味・嗜好の世界では、これはダメとか、これは恥ずかしいという既成概念に囚われる必要などまったく無い。これが私の言うアンファニズムだ。別の面から見れば、大人というパラダイムを捨てることで、精神を自由にしよう、ということでもあるが、まあ、理屈はどうであれ精神(内面生活)の中でまで自分が大人であることに縛られる必要などない、ということである。

ありえただろうアリエッティについての妄想など。
アリエッティが、マチ針を見つけて、それを剣のようにスカートに挿す所があったが、そのマチ針が話の中で生かされていないのは残念。
まあ、それでネズミと戦うなどというのは、誰でも考える展開で、だからそういうアイデアは捨てたのかもしれないが、やはり映画の基本は活劇であり、戦いというものこそ映画的ドラマの王道ではないかと思うのである。それが、妙な婆さんとの戦いどころか、戦いにもならず逃げ出すというのでは、ドラマも何もあったものじゃない。しかも、それが少年の「好意」の結果であるというわけだから、見終わった後の印象があまりすっきりしない。
無責任な観客の立場からは、やはり、ここは陳腐な展開だろうが何だろうが、小人らしい特性を生かし、工夫に満ちた、ネズミや猫や犬との戦いのエピソードが欲しかった。「グレムリン」でグレムリンの中の一匹が映画の「ランボー」の真似をするが、そういう体の小ささを小道具で補った戦いは、観客を面白がらせたと思う。
もちろん、映画全体のトーンが静謐な印象なのだから、それと不調和になってはいけないのだが、しかし、ドラマ的な盛り上がりが無さ過ぎるのもどうか、ということだ。
しかし、米本(だったか?)監督には、かなりの力量があることは分かったのだから、今後は宮崎駿的キャラクター、ジブリ的描写からある程度離れて、冒険をしてもらいたいと思うのである。
私は大昔から(と言ってもまさかのらくろ世代ではないが、杉浦茂くらいは知っているくらいの人間だ)野球漫画が好きだったのだが、残念ながら野球漫画で野球そのものの魅力を描いた作品はほとんど無かった。水島慎二(綴りは正しいか?)の「ドカベン」や「野球狂の歌」「あぶさん」なども、野球を題材にしてはいるが、基本は人間ドラマであり、野球の戦略面が描かれることはほとんど無かったのである。その証拠に、これらの作品はほとんど監督不在と言っていいくらいに監督の存在が軽視されている。「野球狂の歌」の五利監督など、ベテラン投手(兼コーチ?)の岩田鉄五郎よりも発言権が低いのである。まして、戦略や戦術など、皆無であった。
野球の面白さは、昔の騎士や武士の頃の戦争の面白さに似ている。つまり、個人的武勇や技量と、全体としての勝利が結びついたり結びつかなかったりするところである。豪傑を揃えれば戦に勝てるとも限らないのだ。そこに戦略や戦術というものが存在するのだが、かつての野球漫画には、戦略・戦術面の面白さは皆無だったと言ってよい。
その野球漫画に革命を起こしたのが、何と女性漫画家の作品である「おおきく振りかぶって」である。(私は固有名詞に弱いので、私のブログの中の人名や作品名は、ほとんどうろ覚えであることを断っておく)この作品は、実際の試合における実質的監督とも言うべき捕手視点から描かれることが多く、ほとんど1球ごとのボールの持つ意味が克明に描かれている。まさしく、マニアによるマニアのための野球漫画である。大昔の「アストロ球団」という馬鹿マンガ(今ではその馬鹿馬鹿しさが評価されてカルト漫画の扱いを受けている面もあるが)は、1試合の描写に1年くらいかかった記憶があるが、「おおきく振りかぶって」も、1試合の経過を追うだけでそれくらいかかりそうである。しかし、野球好きな人間にとっては、これほど面白い漫画も滅多にない。
この漫画の影響かどうか、それに近い野球漫画も最近は増えつつあり、野球漫画は今、黄金期を迎えていると言えるかもしれない。たとえば、「ラストイニング」や「ダイヤのエース」なども、野球の戦略・戦術の面白さがかなりの比重を占めている作品である。一方、これらより知名度の高い「メジャー」などは、古色蒼然と言いたいような古めかしい「少年野球漫画」で、戦略も戦術もあったものではない。もちろん、そうした漫画の方が好きだという層の方が一般的なのである。
何はともあれ、野球の持つ「考えることの喜び」を掘り出してくれた「大きく振りかぶって」には、私は感謝している。その割に、作者の名前も作品名もうろ覚えだが。

夏目房之介氏による「アリエッティ」評。(無断コピーです。)やっぱりプロらしい見方だね。私の雑な印象批評とは違う。


観てきました。
いいんじゃないでしょうか。
原作を読んでませんが、小さな人々の視点からの世界を緻密に構築する手つきはジブリの伝統みたいなものを感じます。人間の目から見た庭や植物や家具の世界と、それを小さい者の視点で絵と運動について繰り返す映像作り。小さなティーポットから落とすお茶の表面張力。ドールハウスの使い方。要するにアニメの面白さの、少なくともひとつに「世界観を変えて緻密に隅々まで創り上げること」があるということに気づいている、という点で、可能性を感じさせる作品でありました。
成功してるかどうかはともかく、祖母の乗る古いベンツを、わざわざ3Dではなくて手描きで描いたのも、多分温かみみたいなものをそこに残したかったのだと思う。停まってるときも、くにくに動いてるのは愛嬌というべきかな。

ただ、どうしてもジブリ作品として観てしまうので、キャラクターの弱さを感じてしまうのも事実。
この作品でキャラがたってるのはお手伝いのハルさんで、樹木希林の声もいい。逆に宮崎アニメがいかにそれぞれのキャラを強く造形しているかに感心してしまう。
それと、この作品は「女の子」のためのものだなと感じる。ドールハウスに感じる夢みたいな感覚の中で作品が立ち上がるところが見所だが、「男の子」が無条件で感情移入できる部分がない。人間側の主人公は心臓手術直前で動けないし、アリエッティは冒険というほど動いていない。父親も何か物分りのいい定点なだけだし、いちばん「男の子」っぽい野性的なスピラーは、せっかくの弓に矢をつがえただけで射ってないし(藤原竜也を声にあててるのに使い方が勿体ない気もする)。まあ、そういう映画だからいいんだけど、もし「男の子」っぽい部分が結末にからんで盛り上がってたら、もっとすごい作品になってたかも。

ともあれ、女性と一緒に行くといい映画ですかね。女性はじゅうぶん満足すると思う。

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