ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「おおかみこども」の感想をカマヤンさんが書いていたので、その一部を転載。
「サマーウォーズ」の時にも感じたのだが、この監督は「抒情的な風景描写」とユーモアに才能があり、「話の骨格と土台」が弱い。「描きたいものを描く」ことに徹しているのはいいのだが、そのほとんどが気分的なものなのではないか、と思われる。
もちろん、思想性とかテーマ性が逆に作品をつまらないものにする例の方が世間には多いのだから、彼の作品に「大衆の好む要素」がある限りは気分で作るのは正解だ。しかし、「おおかみこども」の場合には、この作品への反発や批判が主として女性たちからたくさん起こったのは、彼の思想性の弱さ、論理的に考えないままに作っている、という点から来たものだろう。つまり、「夢見る夢子さん」である作者への「子育てを甘く見るな」「田舎を甘く見るな」というリアリストたちの反発だ。
そういう批判に対しては、もともとフィクションとは虚構なのだから、リアリティにこだわるのはナンセンスだ、と答えることはもちろんできる。
しかし、リアリティ、あるいは論理的整合性とは、実は視聴者や読者がフィクションに没入するための条件でもあるのだ。実際、私自身、脚本の不自然さが気になって、この作品には最後まで没入できなかった。
細田守監督の才能は素晴らしいものだが、脚本を書く時には、もっと強靭な論理性を持った脚本家と組む必要があるのではないだろうか。
(以下引用)
繰り返すけど、この映画に嫌悪感は感じなかった。なので、そこそこヒットしたのは、嫌悪感を感じさせなかったからだろうなあ、そういう描写力を監督が持っているからだよなあ、とは思う。
家に戻って、他の人の感想を検索してみた。「子供を障害児の暗喩だと読んでしまったら」「作者はそうではないと言っている」「狼男を外国人の暗喩だと読んでしまったら」「作者はそう読まないでくれと言っている」まあ監督が描こうとしているのはそういうのではないだろうなあ、とは思うけど、そう読まれても耐える力強さはないよな。逆に監督が伝えたかったものって何なんだろう。その夜は答えが出なかった。
一晩寝て、思った。
この映画で描かれているのは「男の目から見た理想の母親、理想の嫁」だ。
「花」は疲労することもストレス死することも子供をいびることもない、理想の母親だ。
「花」は一人で子育てをして決して文句を言わない、理想の嫁だ。
「男の目から見た、理想のシングルマザー」を描いたのが、『おおかみこどもの雪と雨』だ。
ストーリー後半の「田舎」は、「都会人が考える、『リアルファンタジー』として理想化され漂白された田舎」だ。
「田舎」というファンタジー空間を舞台に、「理想のシングルマザー」というファンタジーの主人公が、「理想の育児(ただしかなり閉鎖的)」を行うというのがこのストーリーだ。メタ視するとかなりトホホな内容。それを嫌悪感を感じさせずに描写しているのは才能だ。「理想化され漂白された『リアルファンタジー』としての田舎」はけっこう説得力ある描写がなされている。その描写力で何を語っているかというと、さて何を語っているんだろうなあ、という雰囲気系だけど。
微妙な才能だよなあ。危ういよなあ。断崖絶壁のギリギリを渡っていることに本人はあまり気づかないでスイスイ渡っている類の才能で。ムカデがどう自分が歩いているのか意識しない間は歩いていられるのと同じ意味で、自覚しない間は視聴者とファンを増やせるとかそういうタイプの才能かなあ。
悪く言っているつもりはないのだけど、自省的論理的な監督ではないんだろうね。論理的な監督でないのなら、監督業は長く続けられないかもしれないね。自省したら潰れてしまいそうに思うしなあ。
「サマーウォーズ」の時にも感じたのだが、この監督は「抒情的な風景描写」とユーモアに才能があり、「話の骨格と土台」が弱い。「描きたいものを描く」ことに徹しているのはいいのだが、そのほとんどが気分的なものなのではないか、と思われる。
もちろん、思想性とかテーマ性が逆に作品をつまらないものにする例の方が世間には多いのだから、彼の作品に「大衆の好む要素」がある限りは気分で作るのは正解だ。しかし、「おおかみこども」の場合には、この作品への反発や批判が主として女性たちからたくさん起こったのは、彼の思想性の弱さ、論理的に考えないままに作っている、という点から来たものだろう。つまり、「夢見る夢子さん」である作者への「子育てを甘く見るな」「田舎を甘く見るな」というリアリストたちの反発だ。
そういう批判に対しては、もともとフィクションとは虚構なのだから、リアリティにこだわるのはナンセンスだ、と答えることはもちろんできる。
しかし、リアリティ、あるいは論理的整合性とは、実は視聴者や読者がフィクションに没入するための条件でもあるのだ。実際、私自身、脚本の不自然さが気になって、この作品には最後まで没入できなかった。
細田守監督の才能は素晴らしいものだが、脚本を書く時には、もっと強靭な論理性を持った脚本家と組む必要があるのではないだろうか。
(以下引用)
繰り返すけど、この映画に嫌悪感は感じなかった。なので、そこそこヒットしたのは、嫌悪感を感じさせなかったからだろうなあ、そういう描写力を監督が持っているからだよなあ、とは思う。
家に戻って、他の人の感想を検索してみた。「子供を障害児の暗喩だと読んでしまったら」「作者はそうではないと言っている」「狼男を外国人の暗喩だと読んでしまったら」「作者はそう読まないでくれと言っている」まあ監督が描こうとしているのはそういうのではないだろうなあ、とは思うけど、そう読まれても耐える力強さはないよな。逆に監督が伝えたかったものって何なんだろう。その夜は答えが出なかった。
一晩寝て、思った。
この映画で描かれているのは「男の目から見た理想の母親、理想の嫁」だ。
「花」は疲労することもストレス死することも子供をいびることもない、理想の母親だ。
「花」は一人で子育てをして決して文句を言わない、理想の嫁だ。
「男の目から見た、理想のシングルマザー」を描いたのが、『おおかみこどもの雪と雨』だ。
ストーリー後半の「田舎」は、「都会人が考える、『リアルファンタジー』として理想化され漂白された田舎」だ。
「田舎」というファンタジー空間を舞台に、「理想のシングルマザー」というファンタジーの主人公が、「理想の育児(ただしかなり閉鎖的)」を行うというのがこのストーリーだ。メタ視するとかなりトホホな内容。それを嫌悪感を感じさせずに描写しているのは才能だ。「理想化され漂白された『リアルファンタジー』としての田舎」はけっこう説得力ある描写がなされている。その描写力で何を語っているかというと、さて何を語っているんだろうなあ、という雰囲気系だけど。
微妙な才能だよなあ。危ういよなあ。断崖絶壁のギリギリを渡っていることに本人はあまり気づかないでスイスイ渡っている類の才能で。ムカデがどう自分が歩いているのか意識しない間は歩いていられるのと同じ意味で、自覚しない間は視聴者とファンを増やせるとかそういうタイプの才能かなあ。
悪く言っているつもりはないのだけど、自省的論理的な監督ではないんだろうね。論理的な監督でないのなら、監督業は長く続けられないかもしれないね。自省したら潰れてしまいそうに思うしなあ。
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