ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「虚構推理」を11回まで見たが、「鋼人何とか」シリーズ(亡霊の名を「鋼人」とするのもひどいセンスである。鉄骨を振り回すから「鋼人」か。亡霊ではなく、まるでロボットである。)になってからは、その煩雑さとテンポの悪さに呆れている。後半はほとんどが琴子による説明だけで、なぜか知らないが九郎と「亡霊」がその間に意味不明のバトルをするのである。そもそも、犯人が六花だとなぜ確定されたのか、その後の情報が多すぎて、覚えてもいられない。しかもその情報の大半は「嘘だ」と琴子は言っているのである。それを真面目に視聴者が見ていられるだろうか。途中に出て来る物理トリックも(嘘だからそれでいいとされたら呆れるだけだが)あまりにもチャチである。鉄骨の振り子が目の前に襲ってきたら、本能的によけるか顔を背けるだろう。だいたいが、特定の場所に立って身動きもしないでいる被害者などありえない話だ。
怪かしファンタジーと推理の融合というコンセプトがまったく生きていない。どちらもダメになっているだけだ。推理に妖怪も超能力も邪魔なのである。推理とは合理性が土台なのだから、最初から合理性を否定した推理物は不可能な存在であり、夜の太陽のようなものだ。まあ、売れっ子作家が手抜きで「超能力探偵」を主人公にすることはあるが、それは推理小説の自殺だろう。
ついでながら、推理小説と物理トリックはもともと相性が悪いのであり、推理小説で成功したもののほとんどは作者による叙述のインチキ、つまり「叙述トリック」だ、というのが、下に自己引用する私の別ブログの趣旨である。(横溝正史の作品はほとんど読んでいないが、犯罪の謎のほとんどは物理トリックで、すべてチャチであるという定評のようだ。)
前に、城平京を頭がいいと書いたが、取り消す。単に「煩雑な思考作業が平気で、むしろそれを楽しめる」という特殊な人間にすぎないようだ。物事の本質が見えない人間を頭がいいとは言わない。
(以下自己引用)
怪かしファンタジーと推理の融合というコンセプトがまったく生きていない。どちらもダメになっているだけだ。推理に妖怪も超能力も邪魔なのである。推理とは合理性が土台なのだから、最初から合理性を否定した推理物は不可能な存在であり、夜の太陽のようなものだ。まあ、売れっ子作家が手抜きで「超能力探偵」を主人公にすることはあるが、それは推理小説の自殺だろう。
ついでながら、推理小説と物理トリックはもともと相性が悪いのであり、推理小説で成功したもののほとんどは作者による叙述のインチキ、つまり「叙述トリック」だ、というのが、下に自己引用する私の別ブログの趣旨である。(横溝正史の作品はほとんど読んでいないが、犯罪の謎のほとんどは物理トリックで、すべてチャチであるという定評のようだ。)
前に、城平京を頭がいいと書いたが、取り消す。単に「煩雑な思考作業が平気で、むしろそれを楽しめる」という特殊な人間にすぎないようだ。物事の本質が見えない人間を頭がいいとは言わない。
(以下自己引用)
谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、アニメを見たのが1,2年前で、原作小説を古本屋で買って読み始めて1年くらいかと思うが、もちろん全作品は揃っていない。それどころか、同じ作品を何度も買っているのは、その作品タイトルが記憶できないためである。まあ「消失」だけは記憶できるが、それ以外は無理だ。従って、作品内容もほとんど覚えていない。ひどい場合は、同じ作品を半分くらい読んでから「あっ、これは前に読んだやつだ」と気づいたりする。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
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